阪妻プロの創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 06:32 UTC 版)
1925年(大正14年)9月、全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し、25歳で阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立。今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始する。 阪妻はマキノ時代以来の盟友、寿々喜多呂九平・二川文太郎をマキノからの出向で得て、『雄呂血』の製作を開始するが、京都ではマキノ側の妨害が激しく、やむなく東京の吾嬬撮影所で『異人娘と武士』を撮影。 『異人娘と武士』が終わるとすぐに引き返し、奈良で『雄呂血』を撮影。撮影所はなく、旅館に泊まって資金ができるとロケに出るという状況だった。環歌子はこのときの阪妻の様子について、「妻さんは命がけでやっているのがよくわかりました。泣きながら一人で頑張っていました」と語っている。 11月、ついに『雄呂血』が完成し、封切り公開。歌舞伎調の立ち回りを完全に破壊した型破りの殺陣は大評判となり、また体制に反逆する主人公の虚無的な英雄像はその時代の風潮ともマッチし、大ヒットとなる。また、その大胆な殺陣で「乱闘劇のバンツマ」として一世を風靡する。 12月、阪妻人気に注目した松竹は独立早々の阪妻と配給提携を結び、これにより阪妻人気は全国的なものとなる。 阪妻プロでは「三羽がらす」、「四天王」、「十剣士」などといった「からみ(斬られ役)」を揃えていた。河津清三郎は最も多く用いられたからみの一人だった。 1926年(大正15年)4月、阪妻プロの太秦撮影所落成。9月、アメリカのユニバーサル社と配給提携。以後、時代劇のみならず現代劇も制作。 この年『魔保露詩』、「東山三十六峰静かに眠るとき・・・」の活弁で一世を風靡した『尊王』、アナキスト悪麗之助監督・脚本の『無明地獄』と、代表作とされる傑作を連作。剣戟スタアの地位を不動のものとする。 阪妻映画では、講談調の単なる英雄、豪傑と違い、阪妻扮する武士や浪人、やくざに至るまでが人間的な明暗を持ち、不正や不当な権力と闘う不屈な精神が描かれるため、阪妻の映画は幅広い愛好者の支持を受けた。 1927年(昭和2年)5月、ユニバーサル社との提携を解除。思い通りに動かない阪妻を警戒した松竹は、六十万円を出資して阪妻プロを株式会社化。山崎修一を目付役に送り込む。以後山崎と阪妻は意見対立・喧嘩の毎日だった。 1928年(昭和3年)新春早々、朝日新聞が阪妻のために「賞金五千円」をかけて募集した映画小説一等当選作『霊の審判』の映画化を発表。この作品はすでに朝日新聞紙上で伊藤好市原作で連載中であり、「阪妻の初の本格現代劇主演」とあってセンセーショナルな話題を映画界に投じた。 しかし興行主義の松竹と芸術志向の阪妻の対立が次第に表面化。初の現代劇ともあって阪妻も調子が上がらず、また異色の原作映画化といったこともあり、三月封切りの予定を過ぎても『霊の審判』は完成せず、4月、ついに阪妻プロ支配人山崎修一は製作の正式中止を発表。 6月28日、阪妻プロは改革縮小を断行。阪妻は取締役を辞任、『霊の審判』主要スタッフの枝正義郎、細山喜代松、江川宇礼雄、近藤伊与吉らが整理退社となり、『霊の審判』製作再開は不可能となる。 阪妻の松竹に対する発言力が強かったのは大正15年から昭和2年までで、この昭和3年以降は強大な資本力によって、松竹の阪妻プロ干渉が強力なものとなっていった。松竹での阪妻プロの位置づけは「松竹時代劇救世主」から、「松竹時代劇ブロック構成の一環」に組み込まれていった。昭和2年、松竹は阪妻に替えて林長二郎を二万円(当時)の宣伝費をかけて売り出し、長二郎の人気は阪妻に肉薄していく。 1929年(昭和4年)、松竹は阪妻、林長二郎、月形龍之介、市川右太衛門、阪東寿之助と時代劇ブロックを充実させ、芸術志向の阪妻プロとの時代劇製作方針の相克は溝をますます深める。 1930年(昭和5年)6月11日、阪妻懸案の大佛次郎との提携作『からす組』完成後に、阪妻は朝日新聞紙上に松竹脱退絶縁声明書を発表。京都の阪妻プロ撮影所を解散する。
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