闘病・晩年・更なる事業計画
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「浜野豊」の記事における「闘病・晩年・更なる事業計画」の解説
1970年(昭和45年)洞爺湖温泉町字月浦に23000m2の土地を購入。ダンプカーやブルドーザーを購入し、整地、道路を設置した。「観光農場」の造成計画であった。養鶏場、ニジマス、コイの養殖。将来的には様々な蓄舎を建設し、「スイス風」牧場ペンションを建て、高級別荘地に仕立て、「観光休暇村」として分譲計画を持っていた。また洞爺湖温泉では隣接ホテルを1970年(昭和45年)買収した。この土地に総事業費20億円、400室のホテルに増改築する構想を企画。ただこの計画は病により実現には至らなかった。 しかし、豊の様々な事業に目を付けていた、実業家からサイパン島のハファダイビーチホテルの再建計画への参画を打診された。1969年(昭和44年)に現地視察、翌年から調理師、その他従業員を万世閣より派遣しホテル運営に携わった。その結果、ホテルの評判、業績も順調に向上した。しかし、建物に限界があり、サイパン島のオーナー、豊を紹介してくれた実業家、そして豊の共同出資で1972年(昭和47年)2月から新築工事を着工。完成予定は、1973年(昭和48年)1月。 ホテルの完成時は、洞爺湖湖水まつり名物の花火をサイパンで打ち上げることも計画していた。この花火大会はホテルのオープン記念というだけではなく、太平洋戦争の悲劇により、約28000人の日本将兵、そして9000人の在留邦人、3000人の島民、4400人の米軍人の命が散った島。その鎮魂と平和への願いを込め、花火を打ち上げようと考えた。ホテルの完成、そして花火大会は観光客や島民は大喜びに終わった。しかしそこに豊の姿はなかった。 豊の病気が判明したのは1965年(昭和40年)、国立がんセンターで定期健診を受けた時である。診断は胃がんで早期の段階であった為、1966年(昭和41年)2月に手術。術後の経過は良好でその翌月に父、増次郎が死去しただけに「父が身代わりになってくれた」と思った。その後、「抗がん剤」の投与治療を続けながら、登別ホテル万世閣のオープンやサイパン進出の準備など激務と戦った。 がんは、5年間再発しなければ、「完治」とみなされる。主治医にそう告げられ、1971年(昭和46年)10月には「全快祝い」を行っている。1972年(昭和47年)元旦には「もう、あの抗がん剤の副作用に苦しむこともない。この幸せが続きますように。」そう神棚に手を合わせた。この年は第11回札幌冬季オリンピックの年であり日本ホテル協会の役員として、オリンピック選手村でその職務にあたっていた。しかしこの頃、再び体調の異変を感じ、オリンピック終了と共に再び国立がんセンターで検診を受けた。結果は末期の胃がん。「余命半年の命」と告知された。 様々な役職、公職に付いている豊に自分の病気に悲しんでいる時間はなかった。自分の受け持っている職務を片付け、当時大学生の息子に全てを打ち明け、「まずは身を固めろ。」と結婚を懇請し、5月には結婚式を挙げさせ、万世閣の後継者として披露し、5月に病院に戻った。「万に一つでも治るという可能性があれば、その奇跡に向かって挑戦してみる」と生きることに執念を燃やし、病院から会社に指示を出していた。 8月には医師から家族に「このまま病院に居ると、ここで亡くなることになりますよ」と家族に告げた。しかし本人は事情を知らないので家族や従業員、医師の協力で豊を故郷に8月21日に連れ帰った。1週間程、自宅で静養していたが、病状が悪化し、洞爺温泉協会病院に8月28日に入院した。 死の3日前、「洞爺湖が見たい」との事で車椅子を押し、洞爺湖を眺めに行った。「戦争から帰って来た時と何も変わらない。洞爺湖はいいなあ。」と独り言のように呟き、眠りに落ちた。 1972年(昭和47年)9月7日志半ばで家族が見守る中、静かに息を引き取った。偶然にも父と同じ病院の同じ病室であった。享年53。葬儀は万世閣の本館で社葬として執り行われた。
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