闘病と逝去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:21 UTC 版)
成子は、1960年(昭和35年)11月11日、国立東京第一病院に入院した。成子自身には胃潰瘍と告げられたが、実際には結腸癒着と腹壁腫瘍であり、末期がんであった。父昭和天皇は、12月16日、成子の手術結果を聞き「ダメだね」と答えたほどに、重篤な状態であった。1961年(昭和36年)2月、退院。 しかし、そのわずか2か月後の4月より宮内庁病院に入院。これは、父天皇直々の願いであり、実際に天皇・皇后も頻繁に見舞いに訪れた。特に母親の皇后はほぼ毎日訪問しており、家族や知人の見舞いの際も皇后を通して成子の体調を確認する必要があった。同年5月7日、天皇の還暦祝いのため皇居に参内したのが最後の外出となったが、すでに衰弱し、宴の最中も後方のソファに横たわりながらの状態であった。これは、宴を楽しみにしていた成子のために、天皇が医師の反対を押し切って配慮させたものであり、天皇は何度も成子が満足しているか確認した。 初夏頃、成子が天皇・皇后に7月の予定を尋ねた際、天皇は成子の看病のために予定を中止にしていたにもかかわらず、(存在しない)予定がメモに書いてあるふりをして話したという。 7月19日夕方から容体が悪化し、7月22日に危篤となった。そして1961年(昭和36年)7月23日午前3時15分、東久邇家の家族のほか、両親である昭和天皇・香淳皇后、皇太子夫妻ら弟妹の見守る中、逝去した。 皇后は成子の手を握りしめたまま嗚咽し、天皇は「成子」とひとことつぶやいた。妹の鷹司和子や池田厚子が、成子の死化粧を施した。まだ35歳と若年であり、当時16歳の長男・信彦を筆頭に5人のまだ小さい子供を残しての逝去だった。天皇・皇后とも、第一子に先立たれたことに大きな衝撃を受けた。
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