闘病と創作活動の開始
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維廉は生れながらにして病弱であった。そのため、生涯気管支痙攣と過敏性喘息と戦うことになる。1937年の冬、気管支喘息が突然再発する。精神的苦痛が日々増し、強烈な頭痛と失眠が二ヶ月間続く。父の要望より満州医大予備科を受け、合格するが、医科大学は8年間在籍してやっと卒業になるほか、日本人学生が三分の二を占めていたことから、維廉は最終的には入学しなかった。そこで維廉は、身体的療養のためにも海岸に近く、温泉がある南満熊岳城農業学校で農業を学ぶことを決意。日々の体調の悪化に悩まされるも文学への情熱を忘れることができなかった。病気は悪化するも、創作意欲は増すばかりであった。12月13日袁犀の筆名で短編小説『領三人』、12月13日に『母と女』を書き上げ、長春出版の『明明』月刊に原稿を送り掲載される。(『明明』月刊は日本人城島舟礼の出資で創業され、稲川朝二路が主編の総合雑誌である。)袁犀の小説に見られる深い愛憎とリアリスティックな描写、及び独特な風格は文壇と読者の間で注目される。1938年2月18日に短編小説『十日間』を『明明』で発表する。その後、半年間続けていた農業学生の生活を終える。これ以降袁犀は学校に行くことはなく、小中高を卒業することはなかった。瀋陽に戻り、12月1日に短編小説『海岸』を『新青年』1月新年号小説にて発表。また、『夜』を書き、『新青年』2月号で発表。こうして、袁犀は若くして生命の依拠するところを文学に見出し、文学創作を生涯に渡って追求した。19歳のときから中国共産党の地下活動に参加。抗日活動に参加する一方で、創作活動も続けた。袁犀の小説の創作傾向は現実主義的で、東北の現実を題材としたものである。10月に『流』を創作する。この作品は東北部農村地帯における不安定な現実生活と尖鋭的な階級闘争を反映する。郷土的風格を持つ文章であり、人物の複雑な内面世界や農民の抑圧された生活とそれに対抗する農民の姿を忠実に描き出した。この作品はのちに中編小説として華北作家協会出版の『森林の寂寞』に収められる。1941年、21歳の袁犀は「何としても、粘り強く生きていく」ことを実現するために、この一年は手を休めることなく創作活動に打ち込んだ。1月31日に『遠い夜空』、2月20日に『泥沼』、4月に『母なるもの』、5月11日に『虫』、8月30日に『人間』、11月16日に『一人の一生』などの短編小説を相次いで書き上げる。3月に高智と結婚する。
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