闘病と保守経営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 00:54 UTC 版)
「清水義之 (実業家)」の記事における「闘病と保守経営」の解説
しかし、就任からわずか8ヵ月後の1984年11月、出張先から帰国した成田空港にて脳梗塞で倒れ、健康を害し日常業務に支障が生じる。入退院を繰り返すも、側近たちの思惑もあり、内外公職は在任を続けた。1986年6月に岐阜商工会議所会頭は退いたが(1991年6月に会頭へ復帰)、頭取職を退任することはなかった。 1990年頃には、健康を回復するもののその後、再び健康不調となり経年ごとに後遺症は悪化していき、公式の場にほとんど姿を見せない状態が続く。例えば新入行員の内定式には出席せず、入行式で挨拶を行っても”病気で倒れて会話が不自由”なために、周囲がその発音・意思表現内容を理解するのは困難であったという。 その間、十六銀行は保守的な経営姿勢に徹することになる。このことが旧東京三菱銀行同様、バブル崩壊後に多額の不良債権を抱え経営危機に陥った岐阜銀行やUFJ銀行などと比較して、結果として健全な財務力と独立経営を維持したとする評価もある。もっとも、これは1991年に日東あられが粉飾決算で倒産した際、融資額55億円の償却を余儀なくされたことから、いわゆる”バブル融資”には懐疑的であった側面もある。ちなみに、当時の同社社長は清水の高校・大学の7年後輩であった。 こうした岐阜金利と称される厳しい融資環境の中での保守的な経営姿勢は、1990年9月期中間決算において、総資金利鞘の逆転(関連会社の投資顧問に委託した株式・特定金銭信託などの運用成績悪化が主因)を招く。 また、1988年5月に岐阜県生産性本部会長就任を手始めに、1991年6月には岐阜商議所会頭・中経連副会長に復帰、財界活動にも意欲を見せていたが、「カネのかかるプロジェクトを推進するには、十六銀行の資金力が頼り」と人物よりも出身企業で選ばれているという冷めた見方や、(人物として)「行動力、政治外交能力、イメージ戦略などは不安がある」との指摘がなされ、商議所の記者会見等は常に副会長が表立って取り仕切ることになる。 マスコミへのインタビューでは、“愛知県内100店舗(当時は40店舗)へ拡大”、“2、3年内にベトナム事務所開設”等の構想を語るなど意欲的な経営姿勢を見せたが、愛知県内店舗増設はかなわず、2006年現在4店舗削減され、海外もベトナム進出はおろかニューヨーク支店・ロンドン駐在員事務所が閉鎖となっている。
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