闘病期
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このように、歌人としての北斗には順風が吹きつつあったが、漁場の厳しい労働が、再び北斗の身体をむしばみ始める。1928年(昭和3年)4月25日、北斗は喀血し、余市の兄の家で闘病生活に入る。結核である。彼は希望を捨てず、病床で『北斗帖』という自選の歌集をまとめた。また闘病の短歌を作り『小樽新聞』等に送り続けた。 しかし、徐々に病魔は彼の心と身体を弱らせてゆき、明くる1929年(昭和4年)1月26日午前9時、帰らぬ人となった。満27歳(数え29歳)であった。 辞世は、 青春の希望に燃ゆる此の我に あゝ誰か此の悩みを与へし いかにして「我世に勝てり」と叫びたる キリストの如安きに居らむ 世の中は何が何やら知らねども 死ぬ事だけは確かなりけり の3首である。
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闘病期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 08:57 UTC 版)
1884年1月、イポテシュティで、ミハイの父ゲオルゲが亡くなった。このすぐ後、ミハイは古い友人であるアレクサンドル・キビチ・レヴニャーヌに、また2月にもマヨレスクに、国に戻りたいと手紙を書いている。医師はミハイにイタリアを通っての旅を勧め、 2月末、ミハイはキビチと一緒に勧められた旅路に出発し、3月末、大勢の友人たちに迎えられてブカレストに到着した。その後ヤシに行ったり、10月にはその年の『ジュニメア』のパーティーに出るなどしていたが、11月にはまた入院する事となった。その後、入退院を繰り返す事となる。 ミハイは晩年、双極性障害に苦しんでいた。更に1883年にはルーマニアで梅毒と診断されていたと、後にルーマニアの作家で文学評論家のジョルジェ・カリネスク(英語版)は詩人ミハイの伝記で書いている。ミハイは20歳の時から病気を患っていた。しかし、ウィーンで下された別の診断では1883年の衰弱は記述があるが、梅毒については言及していない上、翌1884年にルーマニアに戻ったミハイは、通常の健康状態に見えた。このような疑問の中、1886年、ミハイは梅毒の時に行う因襲的な治療法、水銀注射の投与を受けている。 1889年6月15日、ミハイはブカレストのシュツ医師の病院で、39歳で亡くなった。しかし当時のミハイの検死は酷いものであったため、ミハイの本当の死因は謎のままに終わってしまった。その後、ミハイはブカレスト最大の墓地ベル(英語版)に埋葬された。 近年の研究によれば、当時のルーマニアとオーストリア当局がルーマニア-オーストリア条約の強力な政敵を排除するように命じて、エミネスクを「病気」にすることを企てたと主張されている。秘密条約はルーマニアに、当時オーストリア統治下にあったトランシルバニア地域のルーマニア人への支援を止めるように要求した。それは暫くの間実行され、トランシルバニア出身のルーマニア人をブカレストから去らせる原因になった。エミネスクもまた去る事になり、定期的に監視下に置かれた。そして唯一(未確認)の梅毒診断は、ルーマニアの医者達によって下されたものだった。
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