闘病生活と死
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2012年(平成24年)11月10日18時37分、肺炎による心不全のため、入院先である文京区本郷の順天堂大学医学部附属順天堂医院(以下、順天堂大学病院と記述)で死去。満92歳没(享年93)。生前からの本人の希望で親族だけの密葬を済ませた後、死去から3日後の11月14日の夜に、親族からの連絡で東宝から正式に発表された。なお、発表の数日前には、実際には既に死去していたにも関わらず、“復帰間近”という報道が流れた他、事実の公表寸前まで復帰を願う声が数多くあった。奇しくも森が没した3年前の同日には森繁久彌が96歳で、2年後の同日には高倉健が83歳で亡くなっている。なお、森の本葬時には高倉が弔電でお悔やみを寄せた。 〜 死後明かされた晩年の闘病生活 〜 2010年(平成22年)2月に『放浪記』の上演中止を発表し、事実上の活動停止に入ってからは、自宅で静養しながらマスコミ取材に応じたり、ジャニーズ関連の公演にも足を運ぶなどしていたが、秋以降は体調を崩し、順天堂大学病院へたびたび入退院を繰り返すようになった。また嚥下機能の低下から食べ物が喉を通らなくなり、2011年(平成23年)からは同院に入院。点滴による栄養補給を続けてきた。2012年(平成24年)2月には誤嚥性肺炎を発症し発熱。同年4月には胃ろう造設手術に踏み切り、経腸栄養剤の投与が続けられたが、衰弱は著しく進んでいた。一時退院ののち、9月に大事をとって再入院、この入院が最後となった。この入院中も体調が良いとスクワットを行い、関係者が見舞うと必ず寝巻からカーディガンとブラウスに着替えるなどの気丈さを見せたというが、結局最期は眠るように息を引き取った。森自身、復帰への意欲を持ち続けており、枕元には常に『放浪記』の台本が置かれていたという。最期に遺した言葉は、いかにも仕事に生きた森らしく「みなさん、一生懸命される仕事を生きてね」というものだった。なお、活動停止以降のこうした事実については、死後明らかにされた。 森の死去の報を受け、親交の深かった王貞治、米倉斉加年、浜木綿子、篠山紀信が哀悼コメントを発表した。インタビューで篠山は「その生き方は全女優がそうありたいと思う鏡だったのではないか」と発言している。 また、死去が発表された2012年11月14日以降、追悼番組が各局で編成された。ザ・ドリフターズのメンバーも葬式に駆け付け、「いずれ僕らもそっちに行くかもしれないのでよろしく」とその死を惜しんだ。 2012年11月30日、日本政府は閣議に於いて森光子の日本演劇界発展への貢献を多として、命日である11月10日付で従三位を遺贈することを決定した。
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闘病生活と死
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2007年12月、エリスは悪性リンパ腫(血液のがん)と診断され、ロンドンの病院に入院した。しかし、化学療法と投薬治療が一定の効果を挙げ病状が安定したため、一ヶ月ほどで退院しライブを行うなどの音楽活動を再開した。 2008年6月25日にはジャマイカ・キングストンの国立体育館で当時の情報・文化・青少年・スポーツ大臣オリビア・グランジの主催するコンサート「ゲット・レディ・トゥ・ロックステディ」に出演し、10曲を披露した。しかし、エリスは同年8月のロンドン公演中に倒れ、ウェスト・ロンドンのハマースミス病院に再入院し、10月10日にがんのため死去した。 エリスの死に対し、グランジは「偉大なアルトン・エリスを弔うとき、ジャマイカのポピュラー音楽の発展における彼の記念碑的な貢献に感謝を表さずにはおれません」と弔意を述べた。 11月3日、ジャマイカ・キングストン市ダウンタウン地区で葬儀が執り行われ、エリスの家族やジャマイカ政府関係者、ファン、さらにウィンストン・フランシス、ジョージ・ヌークス(英語版)、トニー・グレゴリー、ケン・ブース、ジュディ・モワット(英語版)、カーリーン・デイヴィス(英語版)など多くの音楽関係者が参列し、エリスに捧げる追悼ライブを行った。
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