闘病生活・快復
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 07:11 UTC 版)
1954年にサンタモニカで逮捕されたこと(公衆トイレでの卑猥な行為)が原因でランド研究所でのポストを失った。 1957年2月にエルサルバドル出身でMITの学生であったアリシア(Alicia Lopez-Harrison de Lardé)と結婚する。 1958年、アリシアが妊娠し、また29歳の若さでMITの終身職員の権利を得る。しかし、この頃から異常な言動が目立ち始め、1959年に病院で検査を受けた結果、現在で言う統合失調症であると診断される。この頃、ナッシュは数学界最大の難問とも言われるリーマン予想の証明に専心しており、そのあまりの困難さが彼の精神をむしばむ要因となったとする見解を示す者もいる[誰?]。 1959年、MIT職員を辞職し、ヨーロッパとアメリカを放浪する旅に出る。1960年にプリンストン大学近郊に戻り、病気の治療で入退院を繰り返しながらも数学の研究を再開した。この頃の病状は非常に重く、大学構内を無為に徘徊することもあり、「ファインホールのファントム」等と言われることもあった。 1963年にアリシアと離婚。しかし、アリシアは1970年にナッシュを夫としてではなく、同居人の形で引き取り、彼の闘病生活を支えることを決心した。この頃からナッシュの病状は少しずつ回復のきざしを見せ始める。 1978年にはカルトン・レンケとともにジョン・フォン・ノイマン理論賞を受賞する。この受賞対象となった仕事は後にノーベル経済学賞を受賞するナッシュ均衡に関する仕事と大枠では同一であるが、こちらは情報工学における見地から贈賞されている。 1980年代後半には統合失調症から快復した。
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