開店から閉店まで
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1930年のブロードウェイのミュージカル『ファイン・アンド・ダンディ(英語版)』などでジョー・クック(英語版)と共演していたヴォードヴィリアンのデイヴ・チェイスン(Dave Chasen)は、ラジオに進出していたクックと別れて映画俳優を目指しハリウッドへ向かった。しかし思惑どおりにはいかず、友人の映画監督・フランク・キャプラに勧められて、1936年12月13日にウェスト・ハリウッドで飲食店を開いた。チェイスンがキャプラの家のキッチンで作りはじめたとされるチリの味は確かなものだったという。当初は「チェイスンズ・サザーン・ピット・バーベキュー(Chasen's Southern Pit Barbecue)」と呼ばれており、6つのテーブルとカウンターでチリやスペアリブ、ハンバーガーなどを提供する店だった。 チェイスンとは友人で『ザ・ニューヨーカー』の創始者・編集者であるハロルド・ロス(英語版)が、仕事仲間と共同で開業資金3,500ドルを融資した。当初からチェイスンが映画俳優になるのは「望み薄」と考えながらも、放っておけけない性分のロスは仕事の斡旋に奔走させられたあとであり、現実的な道に進めさせたかった。最初は豆畑の敷地内にある掘っ建て小屋に過ぎなかったが、チリの味ですぐに有名になり、ハリウッドスターの間で人気店となった。キャプラは軌道に乗ったレストランの運営のために、銀食器を貸し与える必要が生じた。このころの常連にチャールズ・リンドバーグがいた。 1939年になり、イギリスを去ったアルフレッド・ヒッチコックがハリウッドに到着すると、当時新婚だったクラーク・ゲーブルとキャロル・ロンバードの夫婦は、真っ先にヒッチコックをチェイスンズに招いてもてなし、彼を渡米第一作となる『レベッカ』の監督へと導いた。店の居心地が大層気に入ったヒッチコックは、ブース番号『2』を死去するまでの40年以上にわたって常設とし、木曜には決まってディナーの予約を入れては訪れ、テーブルで居眠りをするのが恒例となっていた。ブースの壁には愛娘のパトリシア・ヒッチコック(英語版)の写真が飾ってあった。 実業家で飛行家、ヒューズ・エアクラフトの創設者であるハワード・ヒューズは、1939年にトランスコンチネンタル・アンド・ウエスタン・エアーを買収した際、J・ウィラード・マリオットの「ホット・ショップ」が機内食として納入していた箱入りのサンドイッチに納得がいかず、陶器に盛り付けられたチェイスンズの温かい料理を提供するメニューに切り替えた。かねてより映画プロデューサーでもあったヒューズとチェイスンの取引は続き、チェイスンズは1947年11月2日のスプルース・グースの初飛行を祝うためのパーティー会場になった。晩年は精神に変調をきたして不遇な生涯を終えたヒューズであったが、彼が隠士となってからもチェイスンズは人前に姿を見せる異例の場所の一つになっていたのではないかと店側は考えていた。テニスシューズ履きで訪れるなど店の厳格なドレスコードに従わずとも、彼だけは特別に許可されたという。彼の資金力に物を言わせた奇行は後述のウォーターゲート事件への関与に繋がる。 キャロル・バーネットは1967年から1978年まで続いたバラエティの冠番組『キャロル・バーネット・ショー(英語版)』の収録後、金曜日の夜にゲスト出演者をチェイスンズでディナーに招いていた。 チェイスンズの客層の変わったところでは、ある夜、連邦捜査局(FBI)初代長官・ジョン・エドガー・フーヴァーが客として来ているのを見かけると、他のテーブルには大物ギャングのミッキー・コーエンが居たなどという話が残されている。フーヴァーはかなりの常連だったとされ、ある時、チェイスンが手にしたグラスから採取した指紋を磁器にプリントし、本人へのクリスマスプレゼントに贈ったことがあったという。 チェイスンズではクレジットカードや小切手(checks)での支払いを受け付けていなかった。ロサンゼルスの地元紙を渡り歩いたベテランのジャーナリストで、1958年からはロサンゼルス・タイムズのコラムニストで知られていたジャック・スミスは、晩年にウェスト・ハリウッドの飲食店でこの実状に何度か出くわしたと回想し、1992年に連載中のコラムで取り上げた。スミスはこれを「ネアンデルタール人の慣習」とこき下ろしているが、チェンスンズでも同様であったと会計時に気付いた際、現金での支払いの代わりに、社会的認知度の高い顧客は単純に勘定書(check)にサインして、請求書を郵送してもらえば済むシステムがあるとわかって感激したといい、次の来店からは既存顧客としてエリートの仲間入り果たすのだと称賛していた。 その後は業態が衰退していく中で、1995年4月1日に店は閉じられた。閉店後は後述のレーガンの誕生日会のための役割を終えると、アート作品や絵画、ピアノ、食器から調理器具まで、あらゆる物品が店内の宴会場に並べられオークションにかけられた。 チェイスンズの閉店に伴い、かつての常連が業態の衰退についてロサンゼルス・タイムズの紙上で語ったところによると、ハリウッド・リポーターのベテランであるジョージ・クリスティは、夫と比べて妻には常連客の気持ちを推し量ったり粋な計らいをするスキルがなく、オーナーが妻に代わったのを機に客のほうから廃れていったのだとした。一方で同紙上にて、掘っ建て小屋の開店当時からの常連で映画監督のジョージ・シドニーは、アメリカではヨーロッパのレストランのような伝統よりも常にトレンドを追うが、時代が変わっていく中でハリウッドの若者たちは英国式ディナーのような格調高い概念から離れ、「ただ食べることだけ」を目的とするようになったのだと述べている。
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