醍醐寺報恩院時代略歴とは? わかりやすく解説

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醍醐寺報恩院時代略歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)

文観」の記事における「醍醐寺報恩院時代略歴」の解説

播磨国慈善事業名声為した文観弘真中央戻り正和5年1316年初頭大和国竹林寺奈良県桜井市笠区に所在)の長老になった。しかし、同年1月26日に、真言律宗での師である信空数え86歳で入滅真言律宗率い西大寺第3長老には、開祖叡尊高弟信空弟弟子に当たる宣瑜が着任した信空入滅してしばらく後、文観真言宗醍醐寺移り同年4月21日真言宗醍醐派報恩院流の長である道順から伝法灌頂授けられ阿闍梨師僧)の資格得た報恩院流とは、13世紀憲深に始まる法流で、真言宗事相学(実践的学問)の二大学派の一つ小野派の本拠地である醍醐寺中でも、特に多く優れた学僧輩出した学術的流派である。文観時に数え39歳であり、これ以降真言宗の僧としての存在感高めていく。また、数え41歳文保2年1318年1月8日祈祷で、「弘真阿闍梨」という名で記録されているが、これが真言としての法諱本名)である「弘真という名の初見である。 当時醍醐寺実権は、後宇多上皇の寵僧だった道順と、鎌倉幕府北条氏からの支援受けた隆勝が争っていたが、最終的に道順勝利した文観の師の道順醍醐寺57座主大僧正東寺長者などの要職歴任し元亨元年1321年3月21日には、真言宗最高位である東寺一長者登りつめた。しかし、後宇多上皇同年12月9日治天の君の座を引退し、子の後醍醐天皇親政開始した天皇家での代替わりと共に道順同月28日入滅した元亨3年1323年)、文観数え46歳のとき、後醍醐天皇勅命により宮廷招かれた。文観後醍醐から崇敬受けた理由は、真言宗の上では後醍醐の父の後宇多上皇帰依した道順弟子に当たり、真言律宗の上では後醍醐祖父亀山上皇帰依した叡尊孫弟子に当たるからと考えられる。 翌元亨4年1324年)には、民衆発菩提心後醍醐天皇繁栄祈り、後に大和国真言律宗般若寺奈良県奈良市所在)の本尊となる『木造文殊菩薩騎獅像本堂安置)』(重要文化財)の発願監修手掛けている。興福寺大仏師康俊小仏師康成によって作られ名作である。大施主出資者)は幕府高級官僚である伊賀兼光である。なお、この像は20世紀後半日本史研究者網野善彦らによって幕府呪詛仏像説が唱えられたが、21世紀初頭仏教美術研究者内田啓一らによって否定されている。 同じく元亨4年1324年6月には真言宗の有力庇護者後宇多上皇崩御同年9月から翌年2月にかけて、後醍醐天皇近臣らが討幕計画疑われ正中の変発生するなど、政情不安が一時的に続いた正中2年1325年10月文観後醍醐天皇印可悟り得たことの証明)を授け国家鎮護の大秘術である「仁王経秘宝」も伝授した。その報奨として、宮中御用僧侶である内供奉十禅師補任された。嘉暦2年1327年6月1日後醍醐のために作成され愛染明王画像MOA美術館重要文化財)は、内田の説によれば文観監修または実制作よるものである。 同じく嘉暦2年1327年10月文観帝王の師として、仁寿殿後醍醐天皇両部伝法灌頂職位授け後醍醐帝文観法脈受け継ぐ阿闍梨師僧となった。この功績によって権僧正任じられたが、その時補任書類宸筆、つまり天皇自らによる直筆文書だった。時に数え50歳。 嘉暦3年1328年)から元徳2年1330年)にかけては、後醍醐天皇から律宗の3人の高僧である忍性信空覚盛対しそれぞれ忍性菩薩」・「慈真和尚」・「大悲菩薩」の諡号贈られた。これには、文観からの働きかけがあったと考えられている。また、このころ天皇側近ありながら画業への意欲衰えておらず、東寺宝蔵から絵を描くための資料として宝物借り受けたりしている。 元徳2年1330年10月26日には、後醍醐天皇に「究極灌頂」「密教最高到達点」とも称される瑜祇灌頂」という儀式授けた後醍醐肖像画として著名な絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財清浄光寺)はこの時の様子描いたのであるまた、同年11月23日には、後醍醐中宮正妃)である西園寺禧子にも瑜祇灌頂授けた元徳3年4月29日1331年6月5日)に、後醍醐天皇鎌倉幕府戦いである元弘の乱勃発した後醍醐腹心だった文観同年5月5日捕縛され6月8日には鎌倉護送最終的に薩摩国硫黄島へ流刑となった後醍醐勢力ははじめ惨敗して後醍醐帝自身隠岐島流されたが、帝が同島を脱出する戦い風向き変わってきた。この時、後醍醐真言律宗拠点である尾道浄土寺祈祷求めており、後醍醐天皇がいかに律宗密教重視していたかがわかる。元弘3年1333年5月27日文観主君先駆けて京都帰還し6月5日には後醍醐帝凱旋し建武の新政開始した

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