醍醐寺報恩院時代略歴
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播磨国の慈善事業で名声を為した文観房弘真は中央に戻り、正和5年(1316年)初頭に大和国竹林寺(奈良県桜井市笠区に所在)の長老になった。しかし、同年1月26日に、真言律宗での師である信空が数え86歳で入滅。真言律宗を率いる西大寺第3世長老には、開祖叡尊の高弟で信空の弟弟子に当たる宣瑜が着任した。 信空が入滅してしばらく後、文観は真言宗醍醐寺に移り、同年4月21日に真言宗醍醐派報恩院流の長である道順から伝法灌頂を授けられ、阿闍梨(師僧)の資格を得た。報恩院流とは、13世紀の憲深に始まる法流で、真言宗の事相学(実践的学問)の二大学派の一つ小野派の本拠地である醍醐寺の中でも、特に多く優れた学僧を輩出した学術的流派である。文観は時に数え39歳であり、これ以降、真言宗の僧侶としての存在感を高めていく。また、数え41歳、文保2年(1318年)1月8日の祈祷で、「弘真阿闍梨」という名で記録されているが、これが真言僧としての法諱(本名)である「弘真」という名の初見である。 当時、醍醐寺の実権は、後宇多上皇の寵僧だった道順と、鎌倉幕府北条氏からの支援を受けた隆勝が争っていたが、最終的に道順が勝利した。文観の師の道順は醍醐寺第57代座主・大僧正・東寺二長者などの要職を歴任し、元亨元年(1321年)3月21日には、真言宗最高位である東寺一長者に登りつめた。しかし、後宇多上皇は同年12月9日に治天の君の座を引退し、子の後醍醐天皇が親政を開始した。天皇家での代替わりと共に、道順も同月28日に入滅した。 元亨3年(1323年)、文観が数え46歳のとき、後醍醐天皇の勅命により宮廷に招かれた。文観が後醍醐から崇敬を受けた理由は、真言宗の上では後醍醐の父の後宇多上皇が帰依した道順の弟子に当たり、真言律宗の上では後醍醐の祖父の亀山上皇が帰依した叡尊の孫弟子に当たるからと考えられる。 翌元亨4年(1324年)には、民衆の発菩提心と後醍醐天皇の繁栄を祈り、後に大和国真言律宗般若寺(奈良県奈良市に所在)の本尊となる『木造文殊菩薩騎獅像(本堂安置)』(重要文化財)の発願・監修を手掛けている。興福寺大仏師康俊と小仏師康成によって作られた名作である。大施主(出資者)は幕府の高級官僚である伊賀兼光である。なお、この像は20世紀後半に日本史研究者の網野善彦らによって幕府呪詛の仏像説が唱えられたが、21世紀初頭に仏教美術研究者の内田啓一らによって否定されている。 同じく元亨4年(1324年)6月には真言宗の有力庇護者の後宇多上皇が崩御。同年9月から翌年2月にかけて、後醍醐天皇と近臣らが討幕計画を疑われた正中の変が発生するなど、政情不安が一時的に続いた。正中2年(1325年)10月、文観は後醍醐天皇に印可(悟りを得たことの証明)を授け、国家鎮護の大秘術である「仁王経秘宝」も伝授した。その報奨として、宮中の御用僧侶である内供奉十禅師に補任された。嘉暦2年(1327年)6月1日に後醍醐のために作成された愛染明王画像(MOA美術館蔵、重要文化財)は、内田の説によれば、文観の監修または実制作によるものである。 同じく嘉暦2年(1327年)10月、文観は帝王の師として、仁寿殿で後醍醐天皇に両部伝法灌頂職位を授け、後醍醐帝は文観の法脈を受け継ぐ阿闍梨(師僧)となった。この功績によって権僧正に任じられたが、その時の補任書類は宸筆、つまり天皇自らによる直筆の文書だった。時に数え50歳。 嘉暦3年(1328年)から元徳2年(1330年)にかけては、後醍醐天皇から律宗の3人の高僧である忍性・信空・覚盛に対し、それぞれ「忍性菩薩」・「慈真和尚」・「大悲菩薩」の諡号が贈られた。これには、文観からの働きかけがあったと考えられている。また、このころ天皇の側近でありながらも画業への意欲も衰えておらず、東寺宝蔵から絵を描くための資料として宝物を借り受けたりしている。 元徳2年(1330年)10月26日には、後醍醐天皇に「究極の灌頂」「密教の最高到達点」とも称される「瑜祇灌頂」という儀式を授けた。後醍醐の肖像画として著名な『絹本著色後醍醐天皇御像』(重要文化財、清浄光寺蔵)はこの時の様子を描いたものである。また、同年11月23日には、後醍醐の中宮(正妃)である西園寺禧子にも瑜祇灌頂を授けた。 元徳3年4月29日(1331年6月5日)に、後醍醐天皇と鎌倉幕府の戦いである元弘の乱が勃発した。後醍醐の腹心だった文観は同年5月5日に捕縛され、6月8日には鎌倉へ護送、最終的に薩摩国硫黄島へ流刑となった。後醍醐勢力ははじめ惨敗して、後醍醐帝自身も隠岐島に流されたが、帝が同島を脱出すると戦いの風向きは変わってきた。この時、後醍醐は真言律宗の拠点である尾道の浄土寺に祈祷を求めており、後醍醐天皇がいかに律宗と密教を重視していたかがわかる。元弘3年(1333年)5月27日に文観は主君に先駆けて京都に帰還し、6月5日には後醍醐帝も凱旋して建武の新政を開始した。
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