画業への意欲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
天皇の腹心という地位にありながら、文観の画業への意欲は衰えていなかった。 『東寺執行日記』によれば、元徳2年(1330年)5月7日、文観は東寺宝蔵にあった十二天屏風を借り出している。十二天屏風とは灌頂などの儀式に用いられる密教では必需品の仏具である。しかし、文観の場合は別に儀礼で使う訳ではなく、その画技からして、祖本・下絵の参考にするために借り出したものと考えられる。なお、これを遡る71年前、『感身学正記』正元元年(1259年)条にも、叡尊が十二天屏風を東寺宝蔵から借り出し、紙形に写し取って制作したことが記されている。伝統の踏襲というのは、真言律宗西大寺流の美術の特徴であり、文観もまたその例に倣ったものである。 同年8月25日には、五字文殊菩薩画像を自らの絵筆で描いている(後に白鶴美術館蔵)。8月25日は、叡尊の入滅日である。自署は「菩薩戒芻位内供奉十禅師殊音」であり、「内供奉十禅師」という部分は自身の帝王の腹心としての立場を表しているが、その一方で「菩薩戒芻位(略)殊音」という部分は真言律宗的で、律僧としての意識を保っていたことを示している。 仏教美術研究者の内田啓一は、この文殊画像について、頭髪が一本ずつ丁寧に描かれており、また顔の肌色の地塗りの上に頬に柔らかな桃色を塗って隈とするなど、精緻に凝らされ、繊細な面持ちに仕上げられている、と顔周りについては高く評価する。その一方で、手足を描くのがやや苦手で、その部分にぎこちない印象を与えるのは文観らしい、としている。
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