画業の開始
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:34 UTC 版)
光琳は30歳代前半に光琳と改名。「光琳」の名が史料上確認できるのは35歳の元禄5年(1692年)が初見である。44歳の元禄14年(1701年)には法橋の位を得ている(「法橋」は本来は高僧に与えられる僧位のひとつだが、後に絵師、仏師などにも与えられるようになった)。光琳の作品には制作年代を確定できるものは少ないが、多くの作品に「法橋光琳」の落款が見られることから、彼が本格的な絵画を制作したのは法橋位を得た44歳以後、59歳で没するまでの十数年間だと推定されている。光琳の代表作のひとつ『燕子花図』(かきつばた ず)屏風は、彼の作品中、比較的初期ものとされている。この屏風には「法橋光琳」の落款があるが、「法橋」の2字は別人による書き入れとする説が有力で、この説にしたがえば、『燕子花図』は光琳の法橋位受領以前の作品となる。 『燕子花図』(根津美術館所蔵) 光琳は公家、大名、役人など、多くのパトロンをもっていた。五摂家のひとつ、二条家の当主で摂政・関白を務めた二条綱平の屋敷にはたびたび出入りしていることが記録からわかり、前述の法橋位が与えられたのも、綱平の推挙によるところが大きかったと推測されている。また、京都の銀座(貨幣鋳造所)の役人で裕福であった中村内蔵助(1669年 - 1730年)とも親交があり、光琳は内蔵助の肖像画(現存、大和文華館収蔵)を描いている。光琳は中村内蔵助の娘を引き取って数年間養育し、その娘は後に光琳の息子と結婚するなど、光琳と内蔵助の関係は単なるパトロン、援助者という以上のものがあったようである。紅白梅図屏風の性的な解釈で有名な小林太市郎は、「光琳と乾山」(『世界の人間像』第7巻、角川書店)の中で、「内蔵助が光琳の愛人たることは毫もうたがう余地がない」と断定的に推測した。
※この「画業の開始」の解説は、「尾形光琳」の解説の一部です。
「画業の開始」を含む「尾形光琳」の記事については、「尾形光琳」の概要を参照ください。
- 画業の開始のページへのリンク