画業へ専心
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1916年11月に岡好江と結婚し(結婚式をあげたのはもう少し先のことである)、引き続き宗教大学に通った。翌1917年(大正6年)、太平洋画会展に「梧桐」(水彩)が入選した。しかし、この年の9月に肋膜炎を患い神田長谷川病院に入院、11月に全快したものの、保養のために帰郷する車中でインフルエンザにかかり急性肺炎をおこし入院、一時危篤状態になった。これが原因で大学を休学、翌1918年(大正7年)には宗教大学を退学し画業に専念する決心をした。この頃から油彩画に手を付け始めた。一方、宗教大学に通っていた間は親からの仕送りがあったが、退学して家を継ぐことを放棄してしまったため、それも滞りがちになった。以降、家計の問題は好江の一手にかかるようになった。 水彩画展や光風会展に出品し、1919年(大正8年)の秋、二科展に「鳥小屋」が初入選した。翌1920年(大正9年)1月5日、古賀は岡好江と久留米で結婚式をあげたが、9月に体を悪くし、再度帰郷した。この後、1924年4月に上京するまではほとんど久留米と福岡にいた。1921年(大正10年)1月、妻の好江が女の子を産んだが死産だった。このことがきっかけとなって、「埋葬」に着手した。水彩画のほうの「埋葬」は1922年(大正11年)春に完成、同年5月の来目展に「観音」と共に出品された。1922年(大正11年)油彩画の「埋葬」(油彩・キャンヴァス、総本山知恩院蔵・京都国立近代美術館寄託)と「二階より」を二科展に出品し共に入選、「埋葬」は二科賞を受賞した。「埋葬」と「二階より」は翌1923年(大正12年)にパリのサロン・ドートンヌで開催された二科展でも、日本部の出品作品に選ばれている。一方、神原泰、中川紀元、矢部友衛ら二科出身の画家13人で「アクション」を結成した。(この後「アクション」は1924年(大正13年)10月3日に解散する。)1924年8月と10月に信州に旅行した際、当地の女性と親しくなり、この女性が上京してきたので下谷に家を借りて同棲を始めた。しかし、1925年(大正14年)に女性が病死したことで関係は終わった。 1924年から1925年にかけての古賀は、アンドレ・ロートからの影響を受けた作品(「魚市場」「肩掛けの女」など)を描いた。この頃、日本の一部の画家の間でロートの様式が流行し、古賀もその中の一人だった。石井柏亭によると、 古賀はロートの構成の理論をよく呑み込んで、それを実施するに旨く日本のモチーフを利用した。その頃実際に流行した粗い黒白のだんだらを持つ肩掛の柄は其斜線の平行によって画面に変化を与へることが出来た — 石井柏亭、「古賀春江」春鳥会刊、1934年 という。
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