画業へ専心とは? わかりやすく解説

画業へ専心

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:21 UTC 版)

古賀春江」の記事における「画業へ専心」の解説

1916年11月に岡好江と結婚し(結婚式をあげたのはもう少し先のことである)、引き続き宗教大学通った。翌1917年(大正6年)、太平洋画会展に「梧桐」(水彩)が入選した。しかし、この年9月肋膜炎患い神田長谷川病院入院11月全快したものの、保養のために帰郷する車中インフルエンザにかかり急性肺炎をおこし入院一時危篤状態になった。これが原因大学休学、翌1918年(大正7年)には宗教大学退学し画業専念する決心をした。この頃から油彩画手を付け始めた一方宗教大学通っていた間は親からの仕送りがあったが、退学して家を継ぐことを放棄してしまったため、それも滞りがちになった以降家計の問題は好江の一手にかかるようになった水彩画展や光風会展出品し1919年(大正8年)の秋、二科展に「鳥小屋」が初入選した。翌1920年(大正9年)1月5日古賀は岡好江と久留米結婚式をあげたが、9月に体を悪くし、再度帰郷したこの後1924年4月上京するまではほとんど久留米福岡にいた。1921年(大正10年)1月、妻の好江が女の子産んだ死産だった。このことがきっかけとなって、「埋葬」に着手した水彩画のほうの「埋葬」は1922年(大正11年)春に完成同年5月来目展に「観音と共に出品された。1922年(大正11年)油彩画の「埋葬」(油彩キャンヴァス総本山知恩院京都国立近代美術館寄託)と「二階より」を二科展出品し共に入選、「埋葬」は二科賞を受賞した。「埋葬」と「二階より」は翌1923年(大正12年)にパリサロン・ドートンヌ開催され二科展でも、日本部の出品作品選ばれている。一方神原泰中川紀元矢部友衛ら二科出身画家13人で「アクション」を結成した。(この後アクション」は1924年(大正13年)10月3日解散する。)1924年8月10月信州旅行した際、当地女性親しくなり、この女性が上京してきたので下谷に家を借りて同棲始めた。しかし、1925年(大正14年)に女性病死したことで関係は終わった1924年から1925年にかけての古賀は、アンドレ・ロートからの影響受けた作品(「魚市場」「肩掛けの女」など)を描いたこの頃日本一部画家の間でロート様式流行し古賀もその中の一人だった。石井柏亭によると、 古賀ロート構成理論をよく呑み込んで、それを実施する旨く日本モチーフ利用したその頃実際に流行した粗い黒白だんだらを持つ肩掛の柄は其斜線の平行によって画面変化を与へることが出来た — 石井柏亭、「古賀春江春鳥会刊、1934年 という。

※この「画業へ専心」の解説は、「古賀春江」の解説の一部です。
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