画業と外遊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/14 08:45 UTC 版)
1905年(明治39年)4月20歳で、四条派に属する谷口香嶠(幸野楳嶺門人)の画塾「自邇会」に入る。1909年(明治42年)香嶠が教授を勤めている京都絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)開設の年に入学するが、同じ年に早くも退学。祖母利佐の紹介で松平恒雄を頼り、水墨画を学ぶため中国へ渡る。中国では1年半ほど過ごし、文部次郎厳修邸に寄宿しながら、北京皇室美術館で東洋美術を研究し、その合間に名勝古跡を巡る。1912年(明治45年)から日本美術協会展に出品し始める。1915年(大正4年)香嶠が亡くなると、山元春挙主催の「早苗会」に参加、のちに同会幹事を務めた。 この頃からの秋聲の目覚ましい活躍が始まる。1914年(大正3年)の第8回文展に「こだました後」で初入選。以後、文展に4回、帝展に12回、新文展に3回入選し、力作を次々と発表していく。一方で九鬼家の援助で経済的に恵まれていた秋聲は、当時の日本人としては異例なほど頻繁に海外へ出かけている。文展初入選と同年から3年間、度々中国へ渡って東洋美術の研究に励む。更に1920年(大正9年)の3年間は今度はヨーロッパを外遊、翌年ベルリン国立アルトムゼーム研究室で2年学び、帰途にはインドやエジプトにも立ち寄った。他にも1926年(大正15年)3月から7月にかけては、日米親善のためアメリカに渡っている。こうした研鑽から、秋聲の絵は文展・帝展の中でも異彩を放ち、中国やヨーロッパに題材を求めた異国情緒漂う作品も珍しくない。私生活も充実に、1922年(大正11年)に渡欧中ながら結婚、翌年の帰国後、京都市左京区下鴨森前町に豪邸を建てる。
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