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谷戸城跡

名称: 谷戸城跡
ふりがな やとじょうあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 山梨県
市区町村 北巨摩郡大泉村
管理団体
指定年月日 1993.11.29(平成5.11.29)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 谷戸城跡は八ヶ岳南麓、その裾野隆起する標高862メートル城山茶臼山)にある。甲斐北西近世逸見筋最奥位置する谷戸中心的位置にあって甲斐源氏の祖、平安末期の[[逸見冠者清光]へみかじや]の居城伝える城である。
 逸見清光常陸国武田荘を拠点とし、武田冠者名乗った源義清の子で、新羅三郎義光の孫にあたる。大治5年(1130)濫行によって常陸国司訴えられ(『長秋記』)、義清・清光は甲斐国市川荘(巨摩・8代山梨三郡に散在)に流された(『尊碑分脈』)。こののち清光八ヶ岳南麓逸見荘を拠点として勢力伸長し逸見冠者名乗るが、江戸時代地誌甲斐名勝志』は「矢谷村に城の腰と伝所あり。逸見源太清光給いし館の跡なりと云」、同じく甲斐国志』は「(矢谷城古伝逸見源太清光此ノ城ニテ建久6年6月ヨリ病ミ正治元年6月19日〓(*1)ス」と記している。
 一方『吾妻鏡』治承4年(1180)9年15日条は北条義時甲斐源氏対し源頼朝方に参加するよう、「逸見山」で要請したことを記している。すなわち「武田太郎信義一条次郎忠頼巳下信濃国中ノ凶徒ヲ討得テ、去夜甲斐国ニ帰リテ逸見山ニ宿ス。而シテ今日北条殿其所ニ着シ、仰ノ趣ヲ客等ニ示サレフト云々」、またつづく24日条、10月13日条にも逸見山より駿河出陣した旨の記述がある。この逸見山については『甲斐叢記』が谷戸城山について「又逸見山とも云ふ」と記しているから、この谷戸城のある城山を指す可能性がある。今日逸見山という呼称はないが、城山の西方に逸見神社があり、『甲斐国志』は「社記曰、逸見神社ト云逸見氏世々崇奉ノ氏祠ナリ徃昔ハ古城山ノ南ニ在リ」(諏訪神社の項)と記している。
 こののち観応擾乱時(観応2年<1351>)に「甲斐国逸見城」の名が醍醐寺報恩院文書登場するが、やはり逸見山を指したものか。またさらに下って武田信玄の時代には「谷戸の御陣所」の名が『高白斎記』に散見されるが、軍用道路であった棒道近接した要衝であり、重視されたものであろう
 さらに後北条氏徳川氏が、武田氏滅亡後甲斐国めぐって対立した天正10年(1582)のいわゆる天正壬午戦いには、谷戸城後北条方の城となり、大幅な修築なされたと『甲斐国志』は記している。
 遺構山頂周囲0・5~2メートルほどの土塁囲み東西30メートル南北40メートル主郭とする。また東側には高さ2メートル土塁めぐらす東西30メートル南北60メートルのくるわを設ける。また北には二重の土塁を距って2段東西40メートル南北50メートルのくるわを、また西方にも小規模なくるわを設けている。
 なお昭和57年平成元年大泉村教育委員会によって試掘調査が行われ、土塁にそった横堀や、礎石一部確認した。また蓮弁青磁碗の破片15世紀頃の内耳土器洪武通宝などが検出されている。
 城山の下、城下集落南西にある城下遺跡では平安期集落検出されており、石帯のほか12世紀後半常滑焼破片12世紀後半から13世紀比定される中国青磁白磁破片、白かわらけ出土している。古代牧の系譜を引くという逸見荘の中心的な集落であろう
 谷戸城一帯には御所町屋、対屋敷といった地名残っている。また今日長坂町大八田にある清光寺逸見清光菩提寺伝えるが、その前身信立寺谷戸城北西にあったという。また谷戸城北西の西井出石堂には白旗社(白旗明神)があり、『甲斐国志』は「口碑逸見四郎有義此下ニ白旗ヲ埋ム、後人因テ神トシ祀ル」とあるが、白旗社の存在源氏との関連を示すように思われる。その社地には基礎石を共有する2基の不整形な石層塔がある。また谷戸城山頂にある八幡宮についても『甲斐国志』は「茶臼山城址在り源太清光配祀セリ」と記している。
 このように谷戸城甲斐源氏発祥の地とする伝承極めて豊かにもち、かつ中世通じてこの地域拠点の城としての役割をはたし続けてきた。現在山梨県内における武田氏関連城館としては武田氏館跡昭和13年指定)、要害山平成3年指定)、新府城跡昭和48年指定)が、また一族家臣城館として勝沼氏館跡昭和56年指定)が、また山梨県外の武田氏関係の城として高遠城跡昭和48年指定)、諏訪原城跡昭和50年指定)などが国指定史跡となっているが、谷戸城跡は初期武田氏にかかわる伝承をもつ城として、甲斐中心とする地域における城館跡のあり方武田氏中心とする各勢力発展過程具体的に知ることができる遺跡いえようこのような歴史的意義かんがみ史跡指定しその保存を図るものである
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谷戸城

(谷戸城跡 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/22 00:36 UTC 版)

谷戸城
山梨県
谷戸城跡(2019年10月20日撮影)
城郭構造 山城
天守構造 なし
築城主 逸見氏(甲斐源氏)?
築城年 平安時代?
主な城主 逸見氏・武田氏
遺構 土塁・堀
指定文化財 国の史跡
位置 北緯35度51分24秒 東経138度23分11秒 / 北緯35.85667度 東経138.38639度 / 35.85667; 138.38639
地図
谷戸城
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谷戸城(やとじょう)は、山梨県北杜市大泉町谷戸にあった日本の城城郭)。形式は山城谷戸城跡の名称で国の史跡に指定されている[1]

立地

県北西部に位置。八ヶ岳の山体崩落で形成された尾根上に立地し、標高は850m付近。地形を利用して同心円上に土塁や空堀を配した輪状郭群。東西を東衣川、西衣川に画され、北側は尾根に通じ三方は急崖に囲まれている[2]

沿革

平安時代後期には、常陸国那珂郡武田郷から源義清清光親子が甲斐国市河荘(現在の市川三郷町)へ流罪される。逸見清光(冠者)の子孫は逸見荘へ土着した後、甲斐国各地で勢力を拡大し、甲斐源氏の祖となった[3]

谷戸城は清光の居城と伝わり、江戸時代に成立した『甲斐国志』によれば、清光は正治元年(1199年)に当地において死去したという。平安時代後期には治承・寿永の乱において甲斐源氏の一族が活躍する。

吾妻鏡』によれば、治承4年(1180年)8月24日には石橋山の戦いにおいて伊豆国源頼朝が敗北し、翌8月24日には北条時政義時親子が甲斐国入国を試みたという。9月10日には甲斐源氏の武田信義らが信濃国へ出兵して平家方と戦い、9月15日には甲斐へ帰還し、武田信義・一条忠頼ら甲斐源氏一党は「逸見山」に集結した[4]。甲斐源氏の一族は「逸見山」において頼朝の使者である北条時政を迎えたという。「逸見山」の比定地は北杜市域に複数候補地があり、当地もそのひとつとされる[2][3]

十五日、甲子、武田太郎信義・一条次郎忠頼已下、討得信濃国中凶徒、去夜帰甲斐国、宿干逸見山、而今日北条殿到着其所給、被示仰趣於客等云々、 — 『吾妻鏡』治承4年9月24日条

戦国時代には武田晴信 (信玄)期の信濃侵攻を開始する。『高白斎記』の天文17年9月6日(1548年10月7日)条に拠れば、晴信は信濃国佐久郡前山城長野県佐久市)攻略のため出陣し、「矢戸御陣所」において宿泊したことを記しているが、これが谷戸城を指しているかは不明。晴信は9月7日に海野口に、9月9日には宮之上に到着し、9月11日には前山城を攻略した[3]

(前略)六日戊虎巳刻従諏訪向佐久郡前山ニ被出馬、谷戸御陳所、晴天、七日海野口御陳所、八日於海野口穴山ト箕輪ト御判形申請進シ候、九日宮ノ上御陳所、十一日癸未辰刻打立、臼田大雨、前山責落ス、敵数百人被為討捕、城十三ヶ所自落、(後略) — 『高白斎記』天文17年条

また、『国志』によれば天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後、同年6月の本能寺の変により「天正壬午の乱」が発生する。天正壬午の乱において甲斐は三河国徳川家康相模国北条氏直が争奪し、家康が新府城韮崎市中田町中條)を本陣に七里岩台上の城砦に布陣したのに対し、後北条氏若神子城(北杜市須玉町若神子)を本陣に、周辺の城砦に布陣した。この時、後北条氏は谷戸城へも布陣していたという[2]

江戸時代には、(文政8年1825年)の村方明細帳にも記録が残る。

遺跡の概要

江戸時代から城跡と認識されており、1976年昭和51年)には山梨大学考古学研究会による測量調査が行われる。1982年昭和57年)には一部の発掘調査が実施され、跡など一部の遺構が確認され、青磁片や内耳土器、洪武通宝などの遺物が出土している。

北東や西側は内部に横堀を伴う土塁があり、南斜面には帯状の郭が数段にわたって広がり、防御施設が集中している[5]。北は方形の平坦地が開け、内部には三角形の主郭部がある。

谷戸城は地域振興に際して注目されはじめ、1993年平成5年)11月29日に国の史跡に指定され[6]1999年(平成11年)までに公有地化が行われる。

北杜市考古資料館

谷戸城跡北西角に隣接して、谷戸城を含む北杜市内の考古遺跡および出土品を解説展示する北杜市考古資料館がある。

出典・脚注

  1. ^ 谷戸城跡(国史跡・平安時代~)”. 山梨県 (2012年9月5日). 2013年4月6日閲覧。
  2. ^ a b c 北杜市教育委員会(2009)、p.3。
  3. ^ a b c 北杜市教育委員会(2006)p.3
  4. ^ 北杜市教育委員会(2008)pp.68-70
  5. ^ 岩本(2015)p.48
  6. ^ 永原(2011)p.9

参考文献・資料

  • 北杜市教育委員会、2006年3月31日 発行、『史跡谷戸城跡 環境整備事業に伴う発掘調査報告書』、北杜市
  • 北杜市教育委員会、2008年3月31日発行、『史跡谷戸城跡 史跡環境整備事業報告書』、北杜市
  • 北杜市教育委員会、2009年3月31日発行、『史跡谷戸城跡周辺遺跡 史跡谷戸城跡範囲確認調査報告書』、北杜市
  • 大泉村教育委員会、2002年3月31日 発行、『史跡 谷戸城跡IV』、大泉村
  • 宮坂武男、2014年4月1日 初版初刷発行、『甲斐の山城と館 上巻』、戎光祥出版 ISBN 978-4-86403-104-2
  • 岩本誠城、2015年9月11日 発行、『山梨の古城』、山梨ふるさと文庫 ISBN 978-4-903680-69-9
  • 永原慶二監修、2011年11月30日 発行、『新版 全譯 吾妻鏡』、新人物往来社 ISBN 978-4-404-04105-0

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