証拠が不十分との研究
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 04:40 UTC 版)
「沖縄戦における集団自決」の記事における「証拠が不十分との研究」の解説
渡嘉敷島における「集団自決」について、赤松嘉次隊長による命令によるものという沖縄で言われてきた。これについて、評論家の石田郁夫が1967年渡嘉敷島を訪問、彼自身は赤松が最大責任者と考えるものの、渡嘉敷島でも例えば集団自決の犠牲者の多かった阿波連部落と少なかった渡嘉敷部落では、当時の島の守備隊への意見に温度差があること、集団自決の前段階となった集合命令を村役場の担当者に伝え島民を集めさせたのは当時島に派遣されていた駐在巡査であるが、その巡査が米軍と戦いさえしなかった赤松隊長を名将とし、その言葉そのままに島民にも赤松を名将とする者すら1人いたこと(後に、その人物は巡査が下宿していた家の人物であることが明かされている。)、当の元駐在巡査は既に島を去って沖縄本島にいること等をルポした。以後赤松元隊長はマスコミに登場し始め、集団自決命令を出したことは無いと主張するようになった。週刊新潮は、これを防衛庁の戦史が彼の名誉を回復したからとも(戦史が彼に同情的に書かれたのは、防衛庁にいた元赤松部隊員の働きかけがあったとも言われている)、名将説が現われたことに本人が気を良くしたからとも渡嘉敷島では言われていることを紹介している。これに関し、赤松らと自決命令があったとする渡嘉敷島の住民の間では意見対立が続いていた。1970年渡嘉敷村長が慰霊祭を計画、赤松をはじめ当時の部隊関係者が島を訪問することとなった。沖縄本島に到着したところで、赤松らはそれまでの自決命令否定論もあって激しい抗議反対運動に直面、このことも地元マスコミに報道された。一般元兵士らを別として、赤松ら元幹部らは直接訪問を断念した。(後に曽野綾子が書くところによれば、沖合から手旗信号で上陸元兵士らにメッセージを送ったともされる。) それ以前に沖縄のひめゆり部隊について取材していた曽野は、これらの話や大江健三郎の著書『沖縄ノート』の内容等を知って興味を持ち、渡嘉敷島を訪問取材した。その結果、隊長の集団自決命令説の根拠が曖昧で疑わしいことを、現地取材や赤松元隊長・元隊員らへの取材、(意見対立が激しくなった此の頃、元赤松部隊員らがまとめ直したものであるが)部隊の陣中日誌を通して明らかにしたとする。曽野は「神と違って人間は、誰も完全な真相を知ることはできない」とし、「私は、直接の体験から『赤松氏が、自決命令を出した』と証言し、証明できた当事者に一人も出会わなかった」と言うより他はないとした。 曽野の著書について仲程昌徳琉球大学法文学部教授は「この著書は公平な視点でルポルタージュされた「本土の作家の沖縄戦記」である。曽野の調査が進んでいくにしたがって集団自決は疑わしくなっていくばかりではなく、ほとんど完膚なきまでにつき崩されて、「命令説」はよりどころを失ってしまう。これまで集団自決のあらゆる著書で引用された『鉄の暴風』の集団自決を記載した箇所は、重大な改定をせまられた。」と評価した。ただし、後述の大江に対する名誉棄損訴訟では、曽野の取材に対し「取材対象に偏りがなかったか疑問が生じる」との判決が出ている。(法廷闘争欄参照)また、この仲程の主張は、例えば太田良博の、曽野は自決命令があったことを自身の手記に書いている金城重明に取材していない、赤松の主張に不自然な点が多々ありながらそれらを問題にしていない、朝鮮人徴用工の扱いについて曽野がこれを書けば大変なことになると言うのを太田が聞いた(つまり、それが実際に書かれていない以上、曽野は不都合なことは伏せていると思われる)といった指摘と、かなり異なる。また、山崎行太郎は、曽野の著作に関して、赤松元部隊員がまとめ直した資料を根拠にしていること、その中の自決に関する重要な部分に事実と異なる部分がある事を指摘して、批判している。 曽野の調査について、『沖縄県史』の解説文で梅澤命令説を記述した沖縄史料編集所の大城将保主任専門員は、「曽野綾子氏は、それまで流布してきた従来の説をくつがえした。『鉄の暴風』や『戦闘概要』などの記述の誤記や矛盾点などを丹念に指摘し、赤松隊長以下元隊員たちの証言をつき合わせて、自決命令はなかったこと、集団自決の実態がかなり誇大化されている点などを立証した。事実関係については今のところ曽野説をくつがえすだけの反証は出ていない」と述べたともされる。(ただし、曽野自身は、自分は集団自決命令は絶対になかったとはしていないと語り、何か新証拠が出てくれば容易にひっくり返り得ると著書で書いている。) 1986年には神戸新聞が「『沖縄県史』訂正へ」「部隊長の命令なかった」との見出しを掲げ、大城が「紀要」に梅澤元隊長の手記を掲載したうえ、梅澤命令説の根拠となった手記「血塗られた座間味島」を書いた宮城初枝自身が「真相は梅澤の手記のとおりであると言明している」と記述し、実質的に県史を修正したと報じた。同時に大城将保主任専門員の「宮城初枝さんからも何度か話を聞いているが、『隊長命令説』はなかったというのが真相のようだ」というコメントを掲載した。 しかし、その後、大城は1989年の『沖縄戦の歪曲と真実』のなかで、「私は『神戸新聞』からインタビューを受けたこともないし、掲載紙が私や史料編集所へ送られてきた形跡もまったくないし、最近までこのような記事の存在さえ知らなかった。念のため複数の当時の同僚にも確かめてみたが誰も知らないという返答だった。」と否定し、沖縄資料編集所の紀要に梅澤手記を載せたが、それについては手記を載せたことが『沖縄県史』を訂正したことにはならない、と主張している。 なお、曽野の著作では、赤松の関わった陸軍の特攻艇を体当たりを目的とした生還不可能な特攻艇と書いているが、指揮官指示でそういう運用を取ることもあるが、本来は肉薄して爆雷投下することを目的とするもので、海軍の特攻艇と異なり、必ずしも特攻するための兵器ではない。赤松の部隊らも投下、反転離脱の訓練に取り組んでいたとの話もある。
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