証拠と批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 01:56 UTC 版)
「シェイクスピア別人説」の記事における「証拠と批判」の解説
1593年、居酒屋でイングラム・フライザーという男と口論から喧嘩になり、ナイフで刺されて死亡した後無縁墓地に埋葬された。歴史にはこう書かれているが、実はこのマーロウの死は偽装であるというのがマーロウ派の考えである。 この頃マーロウは無神論者(当時は犯罪者である)の嫌疑を掛けられていた。当局の調査により逮捕されて死刑になる可能性が高まったため、パトロンであったトマス・ウォルシンガムが中心となって偽装殺人事件を演出し、うまくイタリアへ逃げ遂せたマーロウはその後「シェイクスピア」という筆名で執筆活動を続けたのだというのがマーロウ派の考える筋書きである。 殺害犯のフライザーがトマス・ウォルシンガムの使用人であることや、トマス・ウォルシンガムが後の国務大臣フランシス・ウォルシンガム卿(Francis Walsingham)の従兄弟であったため諜報機関との繋がりがあったこと、またマーロウの周囲には舞台関係者が大勢いたため偽装殺人事件の演出くらいならばお手の物であったことなどがその状況証拠である(なお、マーロウは学生時代からスパイとして活動していたという噂もある謎めいた人物であったため、ウォルシンガムが口封じのためにマーロウを謀殺したのだという説もある)。 マーロウの死が偽装であり1593年以降も存命であったことを示す証拠文書として提示されるのは、1599年と1602年にスペインのバリャドリッドで「クリストファー・マーロー」(Christopher Marlor)なる人物が逮捕されていたことを記録した外交文書である。また1604年にゲイトハウス監獄(Gatehouse Prison)に短期間拘留され、やはり諜報機関の幹部であった初代ソールズベリー伯ロバート・セシル(オックスフォード伯の義父であった初代バーリー男爵ウィリアム・セシルの次男)に保釈金を出してもらうことで釈放された「ジョン・マシュー」(John Mathew)なる人物こそ、偽名を用いていたマーロウだとされる。正統派研究者からは、マーロウだのマーレイだのといった名前は極めてありふれたものであり、それらの文書に記載されたのが果たしてマーロウその人であったかどうか確かめようがないとの反論がなされている。 マーロウ派の人々をとらえて離さないのは、シェイクスピアとマーロウが同年の生まれである上に、シェイクスピアの公的な経歴の始まりが、マーロウが死んだ(とされる)時期とほぼ一致するという事実である。シェイクスピアの処女出版である『ヴィーナスとアドーニス』は1593年4月4日に刊行許可が下りている(実際に配本となった日付は記録されていない)。初版本には"William Shakespeare."との署名でサウサンプトン伯への献辞がある。また俳優としてのシェイクスピアに関する記録は1594年の12月から始まるのである。 マーロウ派研究者は、マーロウとシェイクスピアの作品を他の作家による作品と比較して計量文献学(Stylometry、コンピュータを用いて、各語の平均的な字数や語彙、前置詞の用法や特殊な用語の使用頻度などを比較する。近代的かつ実証的である反面、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』の著者は5人おり、いずれも『フィネガンズ・ウェイク』の著者とは別人であるなどという結果が出ることもある)の見地から調査を行った。最初にこの方法で検証を行ったのはトマス・メンデンホール(Thomas Corwin Mendenhall)であり、その後Louis Uleとジョン・ベイカーがさらに徹底的な研究を重ねた。その結果、対象となった何人かの作家の中でマーロウとシェイクスピアだけが語彙や使用頻度の一致を見せ、しかも一文の平均語数が4.2と全く同じ数値を示したのである。 正統派の研究者は、そうした類似点が見られるのはシェイクスピアの若い頃から人気のあったマーロウの影響が現れたためとも考えられ(事実、『ヴェニスの商人』などはマーロウの作品『マルタ島のユダヤ人』("The Jew of Malta"、1589年?)を種本としており、類似点が多いことはむしろ当然といえる)、2人が同一人物であったことを示す有力な証拠とはなりえない、また2人の作品はたとえ語彙が似通っていたとしても、文体や完成度の高さが全く異なると答えている。シェイクスピアの複雑な人物造形の才能や、散文及び弱強五歩格(Iambic pentameter)だけでなくそれ以外の韻律を用いた韻文の技術、喜劇作家としての天賦の才能などの痕跡は、マーロウが残した7本の戯曲からは見出すことができないのである。こうした文体や主題の不一致に関してマーロウ派は、マーロウは野心的な作家であり大胆な文体実験を行っていたのだ、当局の目をごまかし続けるためには文体を変える必要があったのだと説明している。
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