親族・子孫、ムカリ国王家のその後
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「ムカリ」の記事における「親族・子孫、ムカリ国王家のその後」の解説
ムカリの兄弟については数人いたことが知られており、上述のブカ(不花)の他にタイスン(帯孫)などが『集史』『元史』などから確認出来る。 ムカリ自身の子息についてはボオル(孛魯)という人物がいた。『集史』でも「Būghūl Kūyānk。ムカリ・クーヤンクの息子」と呼ばれている通り、1223年にムカリが没すると、このボオルがムカリ国王家の第二代当主となった。1217年にチンギス・カンは金朝領の過半を制圧し、首都の中都を獲得したが、ムカリが「国王」号を得た時、ムカリのジャライル国王家は「五投下」と称されるマングト、ウルウト、ジャライル、コンギラト、イキレスの諸部族諸侯家の首班として、旗下のナイマン、契丹、女直、漢人などのモンゴル帝国に帰順した混成諸軍を率いてこの旧金朝領の経営を任された。これらの混成軍が華北一帯の鎮戍軍のタンマチ(探馬赤、tammači)として編成された。ところがムカリが金朝を完全に制圧する前に没し、ボオルがムカリ国王家と旧金朝領の経営も引き継いだが、このボオルも1228年に32歳で金朝を討ち滅す前に亡くなった。 『元史』「木華黎伝」によると、ボオルには七人の息子がいたことが記録にのこっており、長男のタシュ(塔思)以下、スグンチャク(速渾察)、バアトル(覇突魯)、バイナル(伯亦難)、エムゲン(野蔑干)、エブゲン(野不干)、アルキシ(阿里乞失)らであった。タシュはテュルク語で「石」を意味し、モンゴル語で同じ意味の「チラウン(査剌温)」という別名を持っていた。ムカリ国王家による金朝領の経営が順調に進んでいないことを鑑みて、皇帝オゴデイは1234年に金朝への親征に乗り出し、これを滅ぼした。タシもこの遠征に参加しているが、オゴデイの親征軍における一部将に過ぎない立場に零落し、金朝滅亡後、黄河以北の地域は采邑が諸王家や諸侯間で分封を受け、各々の地域はダルガチの派遣を受けて分割管理されることとなった。このため、金朝の征服に前後して、皇帝オゴデイ直下の中書省による華北経営権拡大や諸王家による所領の分割などのはざまでチンギス・カン治世以来の華北経営の方針が大きく転換し、ムカリ国王家による華北経営権はほぼ全面的に失うことになった。 1239年にタシュが亡くなった。タシュにはシドルク(碩篤児)という息子がいたが、まだ幼かったためにオゴデイの意向によって分家させられることになり、国王家の家督はタシュの弟のスグンチャク(速渾察)が第三代国王として継ぐこととなった。このスグンチャクの継承を契機に、オゴデイはムカリ国王家の幕営地を長城以北の上都周辺から北東の上京会寧府へ転封させてしまった。以降、明代までこの地域がムカリ国王家の本拠地となった。 このように、「国王」の称号はムカリ以降も、「ムカリ国王家」としてその当主を通じて子孫に受継がれ、ムカリの死後は長男ボオル、その子のタシュ(塔思)、次男スグンチャク(速渾察)に移った。モンゴル帝国の第4代皇帝モンケはスグンチャクの息子たちのクルムシ(忽林池)、ナヤン(乃燕)、センウ(相威)、サルバン(撒蛮)の四人のうち、長男のクルムシが「柔弱」であったので次男のナヤンに継がせるつもりであったが、ナヤンが兄を差し置いて国王位を継ぐのを強く辞退したため、クルムシが第五代国王として国王位を継承した。 スグンチャクが国王位にあった時代から、国王家の人々はおおよそトルイ家の王族たちに仕えたようで、ムカリの息子ボオルの三男バアトルはムカリ国王家の重鎮として甥である当主クルムシを補佐し、モンケの治世には政権を支える宿将として活躍し、モンケの南宋遠征ではクビライの旗下に加わった。1260年のクビライ即位のおり、皇后チャブイの実兄であるコンギラト部族アルチ・ノヤン家の当主ナチンと並ぶ、クビライの即位に尽力した最有力のモンゴル諸侯であった。バアトル自身はクビライの皇后であったコンギラト部族アルチ・ノヤン家の子女チャブイの姉と結婚しており、チャブイの家系を通じてクビライの義兄にあたる人物であった。後に東平王に封じられている。このバアトルにはアントン(安童)という息子がおり、1277年、カイドゥ討伐のため、中書省右丞相としてクビライの皇子ノムガンらともに中央アジアに派遣され、シリギらと戦った(シリギの乱)。クルムシの次の国王位はアントンの弟の和童が継いだ。 モンゴル帝国の拡大とともに、ムカリも建国の功臣として崇敬の対象となり、ムカリ国王家の国王世襲はチンギス・カンより認められた特権とする認識が帝国内に定着して、その一族もモンゴル貴族社会では尊敬の対象とされた。国王の任命権そのものは大ハーンが有していたものの、その選出は国王家の内部の問題とされ、大ハーンが勝手に次の国王を定めたり、国王を廃することは出来ないとされた。 『元史』木華黎伝によると、ムカリが誕生する時に張(ゲル、ユルト)から白気が出現したといい、神巫がこれを見て「これは常ならざる子だ」と述べたと伝えている。これは大元朝後期に蘇天爵が編纂した『国朝名臣事略(元朝名臣事略)』のムカリの伝記である「太師魯国忠武王」の段にも同一の話が記載されており、14世紀前半にはムカリ国王の「神話化」が既に定着していたようである。 また、モンゴル帝国・元朝において宿衛部隊であるケシク(怯薛)を率いる宿衛長の職は国家の官制の枠外に置かれ、四駿の末裔から選ばれることになっていたが、そのうち第3ケシクの宿衛長はムカリ王家の出身者が任じられる例となっていた。モンゴル貴族の子弟の多くが宿衛長の指揮下で宿衛士の任務に就いてきたことから、歴代の宿衛長経験者は帝国内のモンゴル貴族の動向に大きな影響を与えた。こうした事情によって、ムカリ国王家出身者で失脚や反乱を原因として誅殺された事例は他の諸王・功臣の系統と比較して少なかったとされ、元朝末期までその血統を保ち続けた。
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