親族・子孫、ムカリ国王家のその後とは? わかりやすく解説

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親族・子孫、ムカリ国王家のその後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 23:57 UTC 版)

ムカリ」の記事における「親族・子孫、ムカリ国王家のその後」の解説

ムカリ兄弟については数人いたことが知られており、上述ブカ(不花)の他にタイスン(帯孫)などが『集史』『元史』などから確認出来る。 ムカリ自身の子息についてはボオル(孛)という人物がいた。『集史』でも「Būghūl Kūyānk。ムカリ・クーヤンクの息子」と呼ばれている通り1223年ムカリ没すると、このボオルムカリ国王家の第二当主となった1217年チンギス・カン金朝領の過半制圧し首都中都獲得したが、ムカリが「国王」号を得た時、ムカリジャライル国王家は「五投下」と称されるマングトウルウトジャライルコンギラトイキレス諸部族諸侯家の首班として、旗下ナイマン契丹女直漢人などのモンゴル帝国帰順した混成諸軍率いてこの旧金朝領の経営任された。これらの混成軍が華北一帯の鎮戍軍のタンマチ(探馬赤、tammači)として編成された。ところがムカリ金朝を完全に制圧する前に没しボオルムカリ国王家と旧金朝領の経営引き継いだが、このボオル1228年32歳で金朝討ち滅す前に亡くなった。 『元史』「木華黎伝」によると、ボオルには七人息子がいたことが記録のこっており、長男タシュ(塔思)以下、スグンチャク(速渾察)、バアトル(覇突)、バイナル(伯亦難)、エムゲン(野蔑干)、エブゲン(野不干)、アルキシ(阿里乞失)らであったタシュテュルク語で「石」を意味しモンゴル語で同じ意味の「チラウン(査剌温)」という別名を持っていた。ムカリ国王家による金朝領の経営順調に進んでいないことを鑑みて皇帝オゴデイ1234年金朝への親征乗り出し、これを滅ぼしたタシもこの遠征参加しているが、オゴデイ親征軍における一部将に過ぎない立場零落し金朝滅亡後黄河以北地域采邑諸王家諸侯間で分封を受け、各々地域ダルガチ派遣受けて分割管理されることとなったこのため金朝征服前後して皇帝オゴデイ直下中書省による華北経営権拡大諸王家による所領分割などのはざまでチンギス・カン治世以来華北経営方針大きく転換しムカリ国王家による華北経営権はほぼ全面的に失うことになった1239年タシュ亡くなったタシュにはシドルク(碩篤児)という息子がいたが、まだ幼かったためにオゴデイ意向によって分家させられることになり、国王家の家督タシュの弟のスグンチャク(速渾察)が第三代国王として継ぐこととなった。このスグンチャク継承契機に、オゴデイムカリ国王家の幕営地を長城以北の上周辺から北東の上会寧府転封させてしまった。以降明代までこの地域ムカリ国王家の本拠地となったこのように、「国王」の称号ムカリ以降も、「ムカリ国王家」としてその当主通じて子孫受継がれ、ムカリ死後長男ボオルその子タシュ(塔思)、次男スグンチャク(速渾察)に移ったモンゴル帝国の第4代皇帝モンケスグンチャク息子たちクルムシ(忽池)、ナヤン(乃燕)、センウ(相威)、サルバン(撒蛮)の四人のうち、長男クルムシが「柔弱であったので次男ナヤン継がせるつもりであったが、ナヤンが兄を差し置いて国王位を継ぐのを強く辞退したため、クルムシ第五代国王として国王位を継承したスグンチャク国王にあった時代から、国王家の人々おおよそトルイ家王族たちに仕えたようで、ムカリ息子ボオル三男バアトルムカリ国王家の重鎮として甥である当主クルムシ補佐しモンケの治世には政権支え宿将として活躍しモンケ南宋遠征ではクビライ旗下加わった1260年クビライ即位のおり、皇后チャブイ実兄であるコンギラト部族アルチ・ノヤン家の当主ナチンと並ぶ、クビライ即位尽力した最有力モンゴル諸侯であったバアトル自身クビライ皇后であったコンギラト部族アルチ・ノヤン家の子チャブイの姉と結婚しており、チャブイ家系通じてクビライ義兄にあたる人物であった。後に東平王に封じられている。このバアトルにはアントン安童)という息子がおり、1277年カイドゥ討伐のため、中書省右丞相としてクビライ皇子ノムガンらともに中央アジア派遣されシリギらと戦ったシリギの乱)。クルムシ次の国王位はアントンの弟の和童が継いだモンゴル帝国の拡大とともにムカリ建国功臣として崇敬対象となり、ムカリ国王家の国王世襲チンギス・カンより認められ特権とする認識帝国内に定着して、その一族モンゴル貴族社会では尊敬対象とされた。国王任命権そのもの大ハーン有していたものの、その選出国王家の内部問題とされ、大ハーン勝手に次の国王定めたり、国王廃することは出来ないとされた。 『元史木華黎伝によると、ムカリ誕生する時に張(ゲルユルト)から白気が出現したといい、神巫がこれを見て「これは常ならざる子だ」と述べた伝えている。これは大元後期天爵編纂した国朝名臣事略元朝名臣事略)』のムカリ伝記である「太師魯国武王」の段にも同一の話が記載されており、14世紀前半にはムカリ国王の「神話化」が既に定着していたようである。 また、モンゴル帝国元朝において宿衛部隊であるケシク(怯薛)を率い宿衛長の職は国家官制枠外置かれ四駿末裔から選ばれることになっていたが、そのうち第3ケシク宿衛長はムカリ王家出身者任じられるとなっていた。モンゴル貴族の子弟の多く宿衛長の指揮下で宿衛士の任務に就いてきたことから、歴代宿衛経験者帝国内のモンゴル貴族動向大きな影響与えたこうした事情によって、ムカリ国王家出身者で失脚反乱原因として誅殺された事例は他の諸王功臣系統比較して少なかったとされ、元朝末期までその血統保ち続けた

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