腸管造血説(千島・森下学説)の公表 昭和32年(1957年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 06:06 UTC 版)
「森下自然医学」の記事における「腸管造血説(千島・森下学説)の公表 昭和32年(1957年)」の解説
当時「読売新聞」記者の二宮信親(後に読売新聞社出版局長を経てラジオ日本常務取締役)が、昭和32年5月に森下の新学説を読売新聞で初めて紹介した。その前に、二宮は岐阜の農学者で同様の説を唱える千島喜久男(1899年 - 1978年)を知り、千島に会って森下の研究を紹介している。 千島は森下の研究をすでに聞き及んでおり、自身の腸造血のヒントとしては、デュラン・ジョルダの本を読んでいた。二宮は彼らの新学説について、研究に関する両者の協力を進言すると、「その通りですよ」と何度もうなずいたという。 森下、千島の両者が、別の立場からの研究で同様な結論を唱えていたことから、二宮は「千島・森下学説」と呼び、新聞その他で紹介した。前後して、当時「科学新聞」記者の鵜野誠(後に同社編集委員を経て科学評論家)も科学新聞に掲載し、森下の学説が公に一般の目に触れるようになった。 それらの記事が出た昭和32年の夏、千島喜久男が上京して森下への面会を希望し、科学新聞記者の鵜野が森下に引き合わせている。両者は互いに大いに喜び、千島は上京を重ねるようになる。森下も独自の実験画像や病院で入手した組織標本などを提供し、良好な協力関係を築いていった。千島は新学説の呼び名にはこだわらないと述べ、森下は生涯にわたり「千島・森下学説」と呼んでいる。 そのころ千島は学位論文の提出先に苦慮しており、受理してくれる大学の紹介を森下に依頼して、森下は最終的に東邦医大の解剖学教授である幡井勉に論文を収め、幡井の指導のもとに手を加え、医学博士の学位論文として受理された。千島は森下に感謝の意を表し、巨大な岐阜提灯を贈呈して、森下はこれを家宝とした。 森下が腸管造血説に至るきっかけとなったのは、東京医科大学生理学教室時代に、骨髄造血の概念が内包する不合理性を実験的に証明しようとしていたある日、偶然にも、ヒキガエルの赤血球から白血球が新生される現象に邂逅したことである。医学・生物学界の常識を鑑みて、ひとり密かに追索を試みた末、昭和26(1951)年には紛れもない事実であることを確信するに至る。 森下の研究は、地球の誕生から生命の起源にまで遡り、のちに常識となるも当時は否定的な見方がなされていた「生命の自然発生説」を是とした。そして、生命前段階物質はいまなお造り出されており、それらは連続した流れの中にあって、らせん状に全部が関連しているもので、それらの現象は可逆性があると考えた。例えば、呼吸現象と解糖系、醗酵と硝酸呼吸と酸素呼吸、同化作用と異化作用などは別々に存在するのではなく、環境の条件によって可逆的に移り変わる反応である。 腸管造血理論は、食べ物が食物性モネラ(生命前段階物質)に発展し、それが腸粘膜において血液細胞に変わり、血液細胞がさらに寄り集まって体細胞に変わっていくとするもので、それらに関する動物および人体組織の膨大な顕微鏡写真をもって証明している。 昭和30(1955)年の学位授与を機に東京歯科大学に移り、それまで書き纏めていた論文の学会発表を試みる。主として生理学会総会と生理学談話会においての発表であったが、よき理解者を得るには至らず、主流の学術雑誌にはこぞって否定され圧迫を受けた。そうした状況での千島との出会いは、大きな喜びであったという。 昭和33(1958)年前後、研究内容のさらなる証明のために映画撮影を思いつき、当時アメリカの顕微鏡映画撮影装置が高価だったため、一定間隔でシャッターを切る自動撮影装置を自身で発明して、四六時中撮影した。この赤血球から白血球が生まれる画像も大問題となり、これらはすべて医学界から黙殺されたものの、自作の顕微鏡映像撮影装置は、第12回東京都優秀発明展覧会で入賞した。この動画は森下独自のものであったが、千島の名も加えて発表している。 その後、森下は自身の理論に基づく二十数年の臨床経験をふまえて、独自の自然医食(浄血・消ガン食)を開発するが、浄血の具体的な手法において、牛乳を推奨する千島とは決定的な意見対立を生じ、実践運動において袂を分かつこととなる。 昭和36(1961)年、千島は雑誌「生科学評論」に「現代医学の五原則批判」という論説を載せた。これは現代医学批判論であり、森下も大いに共鳴したものの、千島はそれを「千島学説の八大原理」という哲学に飛躍させていく。千島は森下に対し、牛乳推奨論や千島哲学に同調するよう迫り、あくまでも科学的方法で進みたいとする森下を、千島の発行する雑誌「生命と気血」で2度にわたり激しく攻撃する。森下は、科学と哲学という思想的な立場の違いと認識し、黙して語らず、両者の協力関係は消滅に至る。 千島は昭和53(1978)年、十二指腸潰瘍を患い永眠(享年79歳)。昭和56(1981)年、腸造血説などの学説権利について、千島の遺族が森下を提訴するも、森下側が全面勝訴している(岐阜裁判)。
※この「腸管造血説(千島・森下学説)の公表 昭和32年(1957年)」の解説は、「森下自然医学」の解説の一部です。
「腸管造血説(千島・森下学説)の公表 昭和32年(1957年)」を含む「森下自然医学」の記事については、「森下自然医学」の概要を参照ください。
- 腸管造血説の公表 昭和32年のページへのリンク