経歴、人物について
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長野県下水内郡飯山町(現、飯山市)生まれ。2歳半から長野市に移る。 父が飯山出身で母は松本の出身、両親共に小学校教師。諏訪市の諏訪市立高島小学校で知り合って結婚し、飯山に異動になってそこで生まれる。育ったのは長野市。往生寺のすぐ下に住んでいた。1950年5月、3歳半のとき父親が狭心症で急死した。 信州大学教育学部附属長野小学校、信州大学教育学部附属長野中学校、長野県長野高等学校を経て(ジャーナリストで産経新聞客員編集委員だった花岡信昭とは幼稚園から高校まで同級生。)信州大学人文学部経済学科卒業。在学中は社会主義運動理論家の清水慎三ゼミに所属し、新左翼学生運動の指導者として通称「白ヘル」(中核派)に属した。1967年の羽田事件を皮切りに新左翼学生運動が高揚しており、1969年に信州大学全共闘議長を務めている。大学構内のバリケード封鎖を行ったり、学生運動の主力部隊を率いて上京し、反米・反イスラエルの10.21国際反戦デー闘争や佐藤首相訪米阻止闘争に参加したりした。猪瀬は、自身も参加したこの1969年の佐藤訪米阻止闘争でもって、60年代後半の学生運動は終わったと述べている。その後の運動は、いわゆる全共闘運動ではないと主張している。 大学卒業後、上京し結婚。出版社勤務などを経て、1972年、明治大学大学院政治経済学研究科政治学専攻博士前期課程にて政治学者の橋川文三に師事し、日本政治思想史を研究。ナショナリズム研究の橋川文三に教えを請うたのは、学生運動を離れた後、「日常性の連続がふつうの生活」「そうした日常性から日本の近代やナショナリズムをもう一度とらえ直さないといけないと思った」からだという。 その後、アルバイトを経て、作家活動に転じる。1987年、西武グループと堤義明について皇族との関係を絡めながら著した『ミカドの肖像』により、第18回大宅壮一ノンフィクション賞、ジャポニスム学会特別賞受賞。1996年、『日本国の研究』により、文藝春秋読者賞を受賞。 2001年、小泉内閣の行革断行評議会(行政改革担当大臣の諮問機関)に名を連ねる。2002年、道路関係四公団民営化推進委員会委員に就任。 2003年、道路関係四公団民営化推進委員会委員時に、近畿ハイウェイ(協)理事長(現全国福利厚生共済会会長)の高井利夫氏関連でやくざ風の男2名に凄まれた事があると述べている。 2007年、地方分権改革推進委員会委員に就任。2001年から2009年まで東京大学大学院人文社会系研究科客員教授、2001年から2003年まで国際日本文化研究センター客員教授、2006年から東京工業大学世界文明センター特任教授。 2012年3月26日、マラソン初挑戦にして東京マラソンを完走。走破タイムは6時間40分。 2007年から、石原慎太郎知事の下で東京都副知事を務めていたが、石原知事の退任に伴い後継指名を受け、2012年(平成24年)12月16日の東京都知事選挙に立候補の届出。そして選挙で433万8936票を獲得し、日本の選挙史上では個人としては最多得票記録で当選した。青島幸男、石原慎太郎に続き、東京都知事は3人連続で作家出身となった。また、初の戦後生まれの都知事となった。猪瀬は石原前知事の五輪招致方針を引き継ぎ、2020年オリンピックの東京招致を成功させた。その後徳洲会グループからの不透明な借入金問題を追及されて任期1年余りで辞任した(#徳洲会グループからの資金提供問題について)。なお五輪招致活動中の2013年7月に、妻・ゆり子が病気のため逝去(享年65歳)。 都知事の職を辞してから約10ヶ月、メールマガジンの発行だけを続けた。2014年10月末に新刊発行をもって執筆活動を再開したが、政治活動は行わないことを表明している。なお徳洲会資金問題ではメディアが収賄と報道したが、司法には選挙資金収支方報告書帳簿記載漏れと判断され、公職選挙法違反として罰金刑が確定し5年間の公民権停止となった。 2016年10月には蜷川有紀との交際が明らかとなり、2018年4月には婚約を発表、12月下旬に結婚(再婚)。 2022年に行われる第26回参議院議員通常選挙に日本維新の会の候補として比例区から出馬し、7月10日の投開票の結果、当選した。得票数は、 44,212票。
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