米国における日本近代化論
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「明治維新」の記事における「米国における日本近代化論」の解説
アメリカ合衆国での歴史学では日本近代化論の研究が進められた。1960年代のアメリカの東洋史研究者エドウィン・O・ライシャワーや日本研究者マリウス・バーサス・ジャンセンは、明治維新による近代化を評価した。 ジャンセンが、ジョン・ホイットニー・ホール、ドナルド・H・シャイブリー、トマス・C・スミスらとともに設立した近代日本研究会議(Conference on Modern Japan)は1960年に日米の学者を集めて箱根会議を開いた。ホールらが「近代化」を、近代を特徴づける諸変化を包括し、他の地域との比較を可能とする概念とみなしたのに対して、日本の学者らは「近代化」を「歴史の中で実現すべき価値理念」とみなし、遠山茂樹は「近代」をマルクス主義と違う意味で用いることの意図を疑い、川島武宜も「民主化」を主軸に据えていないと批判した。ホールは、イデオロギーの構築でなく、あらかじめ決まった結論を前提としないオープン・エンド・アプローチを用いた。 雑誌『中央公論』では、1961年5月号から8月号にかけてクラーク・ケェア、労働経済学者のフレデリック ・H・ハービソン、ジョン・トーマス・ダンロップ、チャールズ・アンドリュー・マイヤーズ、中山伊知郎、尾高邦雄、蝋山政道らが日本の経済的近代化、産業化と民主化について議論をしており、その中でライシャワーは日本の近代化の成功は、低開発諸国の手本になると発言した。 近代日本研究会議が「日本における近代化の問題」(1965、邦訳1968)を刊行すると、多くの反響を呼んだ。米国ではベトナム戦争に反対するニューレフトの歴史学者ジョン・ダワー、ハーバート・ビックスらの“Committee of Concerned Asian Scholars”(憂慮するアジア研究者委員会)は、駐日アメリカ合衆国大使を務めたライシャワーや、ジャンセン、ホールらの近代化研究を、中立を装って日本の近代化の成功を強調するイデオロギーであると批判した。ダワーらは、赤狩りで共産主義者と断定されて自殺したハーバート・ノーマン(前述)を称えた。日本でも明治百年記念式典(1968)に関連して「近代化論」を批判するなどの論争も発生した(後述)。歴史学者安丸良夫は日本近代化論を「新たな支配イデオロギー」と批判し、社会学者の金原左門は近代日本研究会議がフォード財団から多額の補助金を受けたことを問題視した。近年でもヴィクター・コシュマンは2003年の論文で、日本近代化論は冷戦下の日本が共産主義化しないための施策であったと主張した。 こうした批判に対して、箱根会議に参加した丸山眞男は、近代化論は西欧の近代化を絶対として非西欧を図るとして批判されたが、これは誤解であり、ジャンセン、ホールらの近代化論は、近代化の道が多様で複数であることを当初から言っていたと語っている。 マリウス・バーサス・ジャンセンは『坂本龍馬と明治維新』(1961年)で坂本龍馬と土佐藩が維新で果たした役割を取り上げた。ジャンセンは、19世紀にはアメリカで奴隷解放、ロシアで農奴解放が起きる一方で、アジアは欧米の干渉によって変革あるいは反発が起きた。インドではセポイの反乱の結果、大英帝国の支配下に置かれ、中国ではアヘン戦争と太平天国の乱が起きたた。日本でも外圧のなか政治的・知的な激動が変革を醸成した結果、民族的に統一された国家が誕生した。この「日本革命」の成功は、フランス革命が当時の周辺国に影響を与えたように、中国の革命家孫文、康有為、朝鮮の金玉均、フィリピンの革命家エミリオ・アギナルド、インドの独立運動家スバス・チャンドラ・ボースらを刺激し、特に孫文は自身を維新の英雄になぞらえていたという。同書は、小説家の司馬遼太郎に大きな影響を与えた。その後、ジャンセンは1986年に、明治維新は「単なる復古でなくて、革命」とし、2000年の大著The Making of Modern Japanでも、幕末から明治にかけての大変革は、「日本の制度へ恒久的な変化をもたらしたので、革命と呼ぶに直する」と述べる。 経済学者・哲学者のアマルティア・センは2006年の著書で、米国の蒸気船などの技術力に驚いた日本は、それまでの外交政策を見直すとともに、教育政策を見直し、御誓文では知識を世界に求めることが宣言され、1872年の学制では、「不学の戸・不学の人」をなくすことが目指され、1910年には小学校教育が普及し、1913年にはイギリスやアメリカ合衆国よりも多くの書籍が刊行された。木戸孝允は「決して今日の人、米欧諸州の人と異なることなし。ただ学不学にあるのみ」と述べ、欧米人もアジア人も同じ人間であり、教育水準をあげればアジア人も欧米に追いつくことができると考えた。センは、日本における近代化の成功は、ケイパビリティ (潜在能力)の形成によって成し遂げられたとし、日本は、国民の教育水準・識字率を高めれば、社会や経済を改善させ、短期間でも近代化と経済発展を実現できるということを証明し、アジア諸国の模範となり、東アジアの奇跡は日本の経験によって鼓舞されたものであったとする。 このほか、ソ連の日本学者は、明治維新は、1867-8年の政治クーデター、1868年から1873年の200回にもわたる百姓一揆、ええじゃないかなどの民衆運動などが相互に関連する不可分の複合体を成している革命であったと規定した。ソ連の日本研究家イゴール・ラティシェフは明治維新は「未完のブルジョワ革命」であるとする。P.フェドセイエフは「ブルジョワ民族主義革命」であるとする。
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