米国における最初の死亡例
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「リング禍」の記事における「米国における最初の死亡例」の解説
1842年9月13日、ニューヨーク州ウエストチェスター郡のヘイスティングス・オン・ハドソンで約2000人の観衆が見守る中、英国人のクリストファー・リリーとアイルランド人のトマス・マッコイが、119ラウンド、2時間41分にわたって戦った。この試合は1838年に制定されたロンドン・プライズリング・ルールズの下で行われた。ライトヘビー級の試合とされるが、リリーは23歳、140ポンドで、マッコイは20歳2か月、137ポンド(ともにスーパーライト級相当)。身長はリリーの方がマッコイよりも1インチ高かった。自信のあったマッコイは、「勝利、さもなければ死」を意味する黒いハンカチをロープに結び付けていた。 試合は13時に開始された。マッコイは初回に左耳から血を流し、5回に口を打たれてダウンした時には、何らかの反則を訴えている。7回には唇と首が血で染まっていた。この回、リリーの左を腹に受けてマッコイはダウンし、立ち上がると何らかの反則を訴え、ジャッジは同意。レフェリーもこれを認めた。各ラウンドの詳細な経過を記した Life and Battles of Yankee Sullivan では「ここで試合は終わるべきだった」とされているが、マッコイ陣営は寛大にもマッコイの反則勝ちを拒否して、試合の続行を要求した。15回にマッコイは鼠径部のあたりを打たれて反則打を訴え、ジャッジは再び同意。この時もマッコイ陣営はアドバンテージは要らないと言って反則勝ちの権利を放棄している。マッコイは15、16回までは優勢だったが、その後、形勢は不利になっていく。しかし、リリーが非常に冷静に試合を運ぶ一方で、マッコイはセコンドの制止もないままに入れ込んだ状態で戦い続け、63回を迎えて初めてセコンドから少しセーブするように指示を受けるが、その回もマッコイはラッシングを止めない。70回にはマッコイの両目は黒く腫れ上がって左目は塞がり、唇もひどく腫れ上がり、胸に血が流れ落ち、息も絶え絶えで、構えながらも喉から血の塊を吐き出そうとしていた。76回になると試合はより凄惨なものになり、観客は停止を求めて叫んだが、マッコイは毎回リングに出て行った。86回には、リリーがほぼ無傷で入場時とほぼ変わらない状態であったのに対し、マッコイの両目は塞がり、鼻は折れて潰れ、鼻からも口からも夥しい血を流していたにも関わらず、両者のセコンドは試合を続行させた。リリーは毎回マッコイからダウンを奪い、マッコイは鼻や口のみならず両目からも血が噴き出すようになっていた。 89回には試合をプロモートしたリリー陣営のヤンキー・サリバンらが、「死ぬまでやらせてどうする? マッコイはもう勝てない」と試合を止めようとしたが、マッコイのセコンドについていたヘンリー・シャンフロイドは「まだ始まったばかりだ」と拒否。マッコイは自分の血で喉を詰まらせ、塊を吐き出しながら、続行を求めた。107回には、マッコイは窒息感に苦しむように腫れた舌を突き出して口を開いていた。しかし、80度以上もダウンを奪われながらも、118回が終わるとマッコイはセコンドに「手当てしてくれ。そうすればまだやれる」と言い、次の119回を戦った。120回が始まろうとする時、マッコイは動くことができず、15分足らずのうちに死亡した。この結果、リリーが勝利。検視結果では、血が肺に流れ込んだことによる溺死(窒息死)であった。 1791年の デラウエア・ガゼット(Delaware Gazette) 紙などでは、トマス・ダニエルがジェームズ・スミスとのベアナックル・ファイトで命を落としたことが簡単に記されているが、一般的にはこのリリー対マッコイ戦が、米国における死亡事故の最初の記録とされている。18人の関係者が騒乱罪や過失致死罪で逮捕・起訴され、その後ベアナックル・ファイト、懸賞試合への批判が高まることになった。
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