秋収冬蔵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 19:46 UTC 版)
さらに『涅槃経』の菩薩品には 能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し とある。この『涅槃経』中の経文は、『法華経』を引き合いに出していることから、さまざまな解釈や論議を生むことになった。 天台の法華玄義釈籤巻二に 法華に権を開するは已に大陣を破るが如く、余機彼に至るは残党難からざるが如し。故に法華を大収となし、涅槃を捃拾と為す」とあり、日蓮もこの流れを汲み、『報恩抄』において「また法華経に対する時は、是の経の出世は乃至法華の中の八千の声聞に記別を授くることを得て大菓実を成ずるが如く、秋収冬蔵して更に所作無きが如し等と云云。我れと涅槃経は法華経には劣るととける経文なり。かう経文は分明なれども、南北の大智の諸人の迷うて有りし経文なれば、末代の学者能く能く眼をとどむべし と述べている。つまり、天台及び日蓮の解釈では、一仏乗を開き顕し、釈尊の出世の本懐を顕して、八千の声聞に記別(未来に成仏すると予言し約束する)した『法華経』に対して、『法華経』の後に説いた『涅槃経』は、『法華経』の利益に漏れた者を拾い集めたものであるから、『法華経』を秋に収める大収、『涅槃経』を冬に蔵す捃拾とする。したがって、『涅槃経』を捃拾遺嘱(くんじゅういぞく)とも呼ぶ。 しかし、この経文には前半部が省略(あるいは抄略とも)されているという指摘がある。この経文を略さずに書くと 譬(たと)えば闇夜に諸の営作する所が一切、皆(みな)息(や)むも、もし未だ訖(おわ)らざる者は、要(かな)らず日月を待つが如し。大乗を学する者が契経(かいきょう=一切の経典)、一切の禅定を修すといえども、要らず大乗大涅槃日を待ち、如来秘密の教えを聞きて然(しか)して後、及(すなわち=そこで)当に菩提業を造り正法に安住すべし。猶(なお)し天雨の一切諸種を潤益し増長し、果実を成就して悉(ことごと)く飢饉を除き、多く豊楽を受けるが如し。如来秘蔵無量の法雨も亦復(またまた)是(かく)の如し。悉くよく八種の病を除滅す。是の経の世に出づる、彼の果実の一切を利益し安楽にする所、多きが如し。能(よ)く衆生をして仏性を見せしむ、法華の中に八千の声聞の記別を受くることを得て大果実を成ずる如く、秋収め冬蔵(おさ)めて更に所作無きが如し。一闡提の輩も亦復是の如く、諸の善法に於いて、営作する所無し。 したがって、『涅槃経』の立場では、先の声聞記別の経文の解釈はまったく逆であると考える人もいる。それは、『法華経』はたしかに声聞の記別を説いたが、その前に方便品において、「それまでの教えと違うのなら聞けない」と五千人の増上慢の比丘たちが立ち去って(これを五千起去という)以降、救われていない。それらをもし『涅槃経』に譲ったとするならば、一切衆生の済度を確約する仏教の教え、また最高の教えであると位置付ける法華経に落ち度があることになり不完全な教えとなる、と主張する。またこの『涅槃経』の経文は恣意的に前半部が省略されて多く典拠されており、これを省略せず素直に読めばまったく意味が逆の違ったものになるとする。『涅槃経』では、これはあくまでも『涅槃経』の利益を説いたものであり、「秋収冬蔵」というのは、『法華経』で声聞衆が記別を受けて大果実を得たように、この『涅槃経』の教えを修学すれば、「更に所作なきが如し(あとは何もすることがないのと同じである)」と説いている。したがって『涅槃経』を修学しなければやり残したものがある、というのが、解釈を加えない経文そのものの真の意味である。 また、同じく菩薩品には 爾の時に是の経閻浮提に於て当に広く流布すべし、是の時に当に諸の悪比丘有つて是の経を抄略し分ちて多分と作し能く正法の色香美味を滅すべし、是の諸の悪人復是くの如き経典を読誦すと雖も如来の深密の要義を滅除して世間の荘厳の文飾無義の語を安置す前を抄して後に著け後を抄して前に著け前後を中に著け中を前後に著く当に知るべし是くの如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり とあるが、秋収冬蔵の経文は、まさに『涅槃経』の経文を都合のいいように解釈するために抄略したものである、と反論している。しかし、これは、先の文を否定したものではなく、他の経文を否定したものと取るのが、正しいであろう。なぜなら、同一の経文内で、一つの品が他の品と反対の事柄を述べることはあり得ないからである。ただし、『涅槃経』には、その疑義もあり、例えば、一闡提の成仏については(認めたり、認めなかったりという記述)、『涅槃経』一貫して、同一ではなく、錯誤が見られることも指摘されている。 さらに、この秋収冬蔵の譬喩説は南本と北本のみにしかない。法顕・六巻本には、 復、次に善男子、譬えば夜闇に閻浮提の人、一切の家業(けごう)は皆悉く休廃(くはい)し、日光出で已(おわ)って、其の諸の人民、家事(けじ)を修めることを得るが如し。是の如く、衆生、諸の契経及び諸の三昧を聞いて、猶夜闇に此の大乗の般泥洹経の微密の教えを聞くが如し。猶日出でて諸の正法を見るが如し。彼の田夫(でんぷ)の夏時の雨に遇うが如く、摩訶衍(大乗)経は無量の衆生を皆悉く受決(じゅけつ)して如来性を現ず。八千の声聞は法華経に於いて記別を受けることを得たり。唯、冬氷の一闡提を除く。 とあるように、法顕が翻訳した六巻本には「法華経の中で八千の声聞が記別を得た」との記述はあるものの、曇無讖が翻訳した北本及び、六巻本と北本を校合訂正した南本には「大果実を収めて秋収め冬蔵めて更に所作なきが如し」との文言は見当たらない。したがって、六巻本においてもこの箇所は『涅槃経』の優位性を主張するための記述で、『法華経』での声聞記別は単にそのための引証でしかなかったことが伺えるとの主張は、論点の明確化と、後世の研究が待たれるところである。
※この「秋収冬蔵」の解説は、「大般涅槃経」の解説の一部です。
「秋収冬蔵」を含む「大般涅槃経」の記事については、「大般涅槃経」の概要を参照ください。
- 秋収冬蔵のページへのリンク