砂糖の互恵通商
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 06:07 UTC 版)
1778年にジェームズ・クック船長が来航した当時から、砂糖はハワイの重要な輸出品だった。 1850年代、合衆国がハワイ産砂糖に課していた関税は、ハワイの合衆国に対する税率よりもはるかに高く、カメハメハ3世は互恵通商を求めた。 1873年には、早くも合衆国軍事委員会は砂糖の関税を撤廃する代わりにフォード島を確保するよう勧告していた。 当時の太平洋軍管区に属していたジョン・スコフィールド少将とバートン・S. アレクサンダー名誉准将は、防衛能力を確認するためハワイに赴いた。 合衆国がハワイを管理することは、西海岸の防衛にとって不可欠と考えられ、彼らは特に真珠湾のプウロア(英語版)に注目した。 カメハメハ王家(カメハメハ王朝、英語版)の姻戚でハワイの外務大臣に就いており、プウロアの近くに別荘を所有していた外国人チャールズ・リード・ビショップ(英語版)は、ハワイのその入江の売却を提案した。彼は2人の米軍将官を連れてロック周辺を案内したが、彼の妻バーニス・パウアヒ・ビショップ(英語版)はハワイの土地を売却することを個人的に反対していた。第6代国王ウィリアム・チャールズ・ルナリロは、ビショップが担っていたほぼ全ての商務に満足していたが、国土の一部であれ譲与することが先住ハワイ人の不評を買うことになることを懸念していた。ほとんどの島民は真珠湾だけでなく、あらゆる島々から土地が譲渡されることに反対していた。1873年11月までに、ルナリロは交渉を取り止め、医師の忠告も聴かずに飲酒に耽ってあっという間に健康を損ない、1874年2月3日に死亡した。 ルナリロは世継ぎを残さなかった。このような場合、議会に君主を選定する権限が与えられており、後継として選ばれたデイヴィッド・カラカウアが即位した。この新君主に合衆国政府は真珠湾を海軍に譲渡するよう圧力をかけた。カラカウアはこの譲渡が米国に併合される嚆矢となり、また、大地 (ʻĀina) は肥沃で神聖であり、誰にも売り渡すものではないと信じるハワイ人の伝統を踏みにじることになると懸念していた。1875年、合衆国議会はフォード島と交換にさらに7年間の互恵条約(英語版)を締結することを認めた。 しかし、7年後に期限がきても、合衆国は延長に興味をほとんど示さなかった。 1887年1月20日、合衆国は真珠湾の租借を開始した。 その直後に、大半が非ハワイ人からなるグループが、「ハワイアン同盟」と名乗り反乱(英語版)反乱を引き起こした。 彼らは1887年7月6日に独自で憲法を起草した。この憲法を書いたのは内務大臣のロリン・サーストン(英語版)で、義勇軍の武力を背景にカラカウアを脅迫し、首相の退陣と君主の権力を大きく削減する新憲法への署名を強いた。この憲法は武力を背景に制定されたため、「バヨネット憲法(英語版)」と呼ばれた。 (砂糖の輸入に権益を得ていた)カリフォルニア州から支援を受けて、カラカウアは再び議会と交渉を行った。 未だ合衆国が互恵条約に無関心と見てとった彼は、オーストラリアかニュージーランドとより有利な貿易協定を締結すると予示した。 合衆国議会はこの条約が締結されれば、ハワイが合衆国ではなく締結先と併合する結果となるのではないかと危惧を抱いた。カラカウアはハワイの土地を外国に租借することを嫌ったが、1887年9月に条約更新に署名した。 オアフ製糖会社(別名、オアフ・サトウキビ・プランテーション)がジョン・パパ・イイの地所から(彼が、1891年に島を購入した後で)120ヘクタールを借り受け、1899年から砂糖の精製を始めた。この事業は成功し、会社はベンジャミン・ジリンハム(英語版)からワイピオ半島(ワイピオ(英語版)の南東)を借り受け、12器のローラーミルと鉄道を建設した。サトウキビは、貯水池から真水を共有する用水路を張り巡らせたフォード島で栽培され、収穫後ははしけと鉄道でミルまで運ばれた。 1902年、近くにあったバーニス・パウアヒ・ビショップの地所が、真珠湾周辺の土地を市場価値より安価に購入する目的で合衆国の提訴した訴訟に負けた。ビショップの地所の地下は1エーカー当り600ドルだったが、合衆国は1エーカー当りたった30ドルしか支払おうとしなかった。結果として陪審員は、合衆国の購入価格を1エーカー当り75ドルと決定した。フォード島の土地に対する関心と同様の訴訟に直面し、ジョン・パパ・イイの地所から25エーカーが合衆国に対して無償で譲渡された。 その代わりに、合衆国は島全体に対して起こしていた訴訟を取り下げた。 米軍は、6インチ砲を設置するため、ジョン・パパ・イイから島の北側と南側の合わせて10.45ヘクタールの敷地を3,000ドルで借り受け、ボイド砲台とヘンリー・アデア砲台を築いた。 1917年、事業に損害をうけるオアフ砂糖会社の提訴にかかわらず、ジョン・パパ・イイは合衆国に土地の一部を売却し、飛行場が建設されることになった。
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