砂糖の増産、専売の強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「砂糖の増産、専売の強化」の解説
薩摩藩の収入増加で最も期待されていたのが奄美大島、徳之島、喜界島の三島の砂糖であった。現実問題、大坂商人出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛らが改革に協力するようになったのも、砂糖利権供与があってのことであり、砂糖による収入増は改革の成否の大きなポイントの一つであった。 調所が取った施策はこれまで以上の収奪の強化であった。もともと三島産の砂糖は薩摩藩の貴重な財源として専売制が実施されていた。調所は文政12年(1829年)、生産された砂糖の全量買い取りを決断し、天保元年(1830年)には新たに三島方という担当部署を新設し、砂糖全量買い取りを強力に推し進める。全量買い取りであるため、砂糖の私的な販売は厳禁された。また砂糖の抜荷の強力な取り締まりを実施し、違反者には死罪を含む厳しい罰則を科した。また島民自身にも砂糖の所有、使用を禁止し、指に付いた砂糖を嘗めただけでむち打ちとする等、徹底した締め付けを行った。 並行して島内では金銭の流通を停止させ、金銭を使用した商行為も禁止し、代金に当たる生活必需品等を現物で対価を支払うこととした。金銭流通の停止と金銭による商行為の禁止は砂糖の密売防止がその狙いであった。現物支給のために砂糖と諸物品との交換比率が定められたが、この交換比率は生産者の島民にとって極めて低く設定された。現物で対価が支払われなかった砂糖に関しては、羽書(はがき)という一種の証書を振り出し、島内での売買や貸借用に流通させる「羽書制」が採用される。その上でサトウキビ栽培地の強制割り当てを行い、島民は割り当て面積のサトウキビ栽培を強制された。栽培から製糖に至るまで厳しい監視、監督が行われ、作業内容が不良な者には刑罰が科された。 また薩摩藩は琉球産の砂糖や、沖永良部島、種子島や薩摩、大隅の各地に広まったサトウキビ栽培による砂糖も一元管理、販売を行った。そして砂糖の製法、出荷用の樽詰めの改良を行い、品質向上に向けての努力もあって、調所の改革開始前よりも大坂での砂糖の売値は上昇し、藩の収入も増大した。 しかし様々な強制によって収奪を極限にまで強化したにも関わらず、薩摩藩が全量買い入れを行った三島産の砂糖の量は改革前と比較して増えることはなかった。これは強制的な収奪による砂糖収入増を目指す政策自体の限界を示すものであった。そのような中で薩摩藩にとって頭が痛い問題が持ち上がった。日本各地でサトウキビの栽培が普及し、阿波、讃岐、土佐、和泉、駿河、遠江などでの砂糖の生産量が急増し、しかも阿波、讃岐の和三盆に代表されるようにその品質も優良であった。天保末年には各地の品質が良い砂糖が大量に市場に供給されるようになって、薩摩藩関連の砂糖価格は暴落した。 調所は各地で生産される砂糖のこれ以上の広がりを食い止めるべく、農学者の製糖書の出版差し止めを画策したり、砂糖の買い占めや下関での砂糖販売を試みるなど、砂糖市場の操作も試みた。しかし調所の努力にもかかわらず、日本各地で生産された砂糖の流通拡大という現実を転換させることは不可能であった。
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