環境保全のための戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/10 15:34 UTC 版)
「グランドティトン国立公園」の記事における「環境保全のための戦い」の解説
1897年、イエローストーンの最高責任者代理S・B・M・ヤング大佐は、移動するワピチ (エルク)の群れを守るためジャクソン・ホールの北部を含めるよう公園の境界を南に拡張することを提案した。翌年、米国地質調査所所長チャールズ・D・ウォルコットは、ティトン山脈も含めるべきだと提案した。新しく設立された国立公園局の局長スティーブン・マーサーと補佐役ホーラス・オルブライトは、1917年、内務長官 フランクリン・レーンにあてた報告書でほぼ同じことを述べた。ワイオミング州下院議員 フランク・モンデルが法案を提出し、1918年米国下院を満場一致で通過したが、アイダホ州上院議員ジョン・ニュージェントが公園局の管轄の拡大がヒツジの放牧許可を脅かすことを恐れたため、米国上院で否決された。公園の拡大に対する公衆の反対もジャクソン・ホール内及び周囲で始まった。その証拠に、オルブライトは、1919年に公園の拡張に賛成の発言をするためにジャクソンを訪れた際、怒った街の人々によって実際にそこから追い出された。 地域住民の姿勢は、ジェニー湖、エマ・マチルダ湖、ツー・オーシャン湖にダムを造る提案が行われた年に変わり始めた。その後、1923年7月26日に地域住民とオルブライトを含む国立公園局の代表が、谷の"古き西部"の特徴を保護するためにレクリエーション地域を作ろうと私有地を買い上げる計画を検討することを目的に、モード・ノーブルの小屋で会議を開いた。オルブライトは、公園局による管理を支持していた唯一の人物だった。他の人たちは伝統的な狩猟、放牧、観光牧場を続けることを望んでいた。1927年、慈善家ジョン・ロックフェラー2世はスネーク・リバー・ランド・カンパニー(Snake River Land Company)を設立し、彼とその他の人々は匿名でその地域の土地を買い、国立公園局が運営できるようになるまで保有できるようになった。カンパニーは、140万ドルで35,000 ac(142 km2)以上を買うというキャンペーンを始めたが、15年間にわたる農場経営者の反対と公園局による土地の引取り拒否に直面した。 1928年、国立公園及び森林にかかる調整委員会が谷の住民と会議を開き、公園の設立の合意に達した。それからワイオミング州上院議員ジョン・B・ケンドリックがグランド・ティトン国立公園を設立する法案を提出した。その法案はアメリカ合衆国議会両院を通過し、クーリッジ大統領によって1929年2月26日法制化された。96,000 ac(388 km2)の公園はティトン国有林から切り分けられ、ティトン山脈とその麓のジャクソン・ホールにある6つの氷河湖を含むこととなった。しかしながら、牧畜業者のロビー活動によって、最初の公園はジャクソン・ホール(その谷底は放牧に使われていた)のほとんどを含まないこととなった。一方、国立公園局は、スネーク・リバー・カンパニーが保有する35,000 ac(142 km2)の土地を受け取ることを拒否した。 こう着状態に失望し、ロックフェラーは当時の大統領フランクリン・ルーズベルトに手紙を送り、連邦政府が土地を受け取らない場合は、他の処分をするか、市場で条件を満たす買い手に売るつもりであると述べた。その後まもなく、大統領は、1943年3月15日に221,000 ac(894 km2)の公有地をジャクソン・ホール・ナショナル・モニュメントに指定した。しかし、ロックフェラーから土地を受け取ることを巡って長い論争が繰り広げられ、モニュメントにその土地を公式に含めることはできずじまいであった。 地域住民によるモニュメントへの反対は、その指定は州権の侵害であり、地域経済と税基盤を破壊するものであるとの批判に直結した。牧場経営者は、衝突を引き起こすためのデモンストレーションとして、500頭の家畜に新しく設立されたモニュメントを横切らせた。国立公園局はこの人目を引くための行為に反応しなかったが、この出来事はこの問題に世間の耳目を集めることとなった。ワイオミング州下院議員フランク・バレットが、モニュメントを廃止する法案を提出し、両院を通過したが、ルーズベルトが法案を握りつぶした。米国森林局の当局者は、新たにティトン国有林の一部を公園局に譲渡したくなかったので、譲渡に反対した。最後の一幕では、森林警備官はジャクソン湖レンジャー・ステーションを公園保護官に明け渡す前に焼き払うことを命じられた。公園とモニュメントを支持する地域の住民は、排斥され嫌がらせを受けた。 モニュメントを廃止しようとする複数の法案が1945年から1947年にかけて提出されたが、いずれも成立しなかった。第二次世界大戦の終結以降の観光収入の増加が、地域住民の姿勢の変化の原因であると言われている。公園を広げてモニュメントを公園と統合するという運動は勢いを得て、1949年4月までに利害関係者が妥協案をまとめるために上院予算委員会議場に集まった。ロックフェラーの土地は1949年12月16日モニュメントに加えられ、ようやく私有地から公有地となった。ジャクソン・ホール・ナショナル・モニュメントの大半(国立エルク保護地域に加えられた南部を除く)をグランド・ティトン国立公園と合併しようという法案が、1950年9月14日大統領トルーマン大統領によって署名され法として成立した。その法律の中の一つの譲歩が遺跡保存法 (Antiquities Act)を修正し、ワイオミング州でナショナル・モニュメントを宣言する将来の大統領の権限を制約した。グランド・ティトン国立公園の北境からイエローストーン国立公園の南口までのびる景色の良いハイウェイは、この地域の保護にかかるロックフェラーの貢献を認めるため、ジョン・ロックフェラー2世記念公園道路(John D. Rockefeller, Jr. Memorial Parkway)と名づけられた。
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