火炎瓶・対戦車地雷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
「ノモンハン事件」の記事における「火炎瓶・対戦車地雷」の解説
ノモンハンの戦場では、張鼓峰に引き続き、日本の歩兵とソ連の戦車との間で対戦車戦闘が繰り広げられた。ノモンハン戦で大々的に戦場に投入された歩兵用の対戦車兵器として火炎瓶がある。しかし、火炎瓶は日本軍の正式な兵器ではなかった。1937年にスペイン内戦で火炎瓶が猛威を振るったのを見た観戦武官の西村進少佐の報告により日本でも試験が行われたが、試験結果は芳しいものではなく、兵器として採用されることはなかった。しかし、第1師団の河村恭輔師団長など一部の将校がその効果を認め、配下部隊に研究を指示している。ノモンハンで日本軍が火炎瓶を使用するきっかけは諸説あるが、1939年5月28日に岡野一等兵がトラックで移動中にソ連軍戦車に攻撃され、ガソリン缶を敵の方に投げ捨てたところ、戦車がガソリン缶が踏みつけると同時に発火し戦車が炎に包まれた。これでソ連戦車がガソリンで炎上すると知った日本軍は、手軽に手に入るサイダー瓶をかき集めて大量の火炎瓶を作成した。 火炎瓶で戦車を攻撃する肉薄攻撃班は、火炎瓶2、3本と手榴弾数発を持った2名を1組とし、それぞれ個人壕に籠り、戦車が接近すると火炎瓶の導火線に点火し戦車に向かって投げつけた。戦車はたちまち炎に包まれると30 mぐらい走って止まった。炎上した戦車から飛び出した戦車兵は日本軍に射殺されていった。一番効果のあった7月2日から3日までのハルハ河東岸での戦いでの第26連隊の報告では、わずか1時間で10輌の戦車を火炎瓶で撃破したとしている。日本国内では国民の士気高揚のために、参戦者やジャーナリストによる、草葉栄中隊長著の『ノロ高地』、樋口紅陽『ノモンハン実戦記』、山中峯太郎『鉄か肉か』などの著作や見聞記で、戦車を肉弾攻撃で撃破する勇戦ぶりがことさら強調された。また戦争画で名高い藤田嗣治のノモンハン事件の戦争画『哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘』もソ連戦車に日本軍歩兵が白兵攻撃を行っている構図であり、日本兵が火炎瓶など肉弾攻撃でソ連軍機甲部隊に立ち向かうという構図が定着することとなった。 しかし、日本側の火炎瓶への高い評価と違って、ソ連側はさほど脅威には感じていなかった。ソ連の報告書では「ガソリンを入れて導火線の付いた栓をしたありきたりのワインボトル(実際はラムネ瓶)を集めた『放火隊』が配置についていた。戦車に投擲された瓶は火災を引き起こし、逃げ出す乗員らは射殺されていった。この戦法はあまり効果的ではなかった。7月の作戦で撃破された第11戦車旅団の戦車の中で調査した20輌の内、砲撃を受ける前に放火されたのはわずか2輌に過ぎなかった」とされている。 火炎瓶と比較して、対戦車地雷は効果的であり、7月の作戦で撃破された第11戦車旅団のBT-5快速戦車25輌の内、対戦車地雷で仕留められたのは4輌であった。日本軍は対戦車地雷を長い竹竿に装着して肉弾攻撃の武器としても使用している。戦闘工兵が死角から戦車に接近し、長い竹竿を使ってキャタピラの下に地雷を付きだして戦車を停止させると、戦車に飛び乗って車内に手榴弾を投擲して撃破している。しかし、日本軍の主力地雷となった九三式戦車地雷は炸薬量が少なかったので威力不足で、しばしばキャタピラでさえ破壊できないこともあった。特にノモンハンの戦場に多く存在した砂地では威力がさらに減殺され、効果的な使用ができなかった。 ソ連軍は、日本軍の対戦車陣地対策として、戦車小隊を、前列3輌、後列2輌のチェス体形で行動させるようになった。前列の戦車によって暴露された速射砲や肉弾攻撃の日本兵を、後列2輌の戦車が殲滅するという戦術であった。特にこの戦術は火炎瓶や対戦車地雷をもって潜んでいた肉弾攻撃兵に大きな効果があり、第二次ノモンハン事件後半の頃には、ほぼ日本軍の肉弾攻撃を無力化していた。また、ハルハ河西岸の戦いでは、炎天下で長距離の連続走行をしたため、戦車の装甲やエンジンが灼熱化しており、火炎瓶の炎が車体全体に延焼し、重篤な損傷を受けることが多かったため、連続走行を控えてエンジンの過熱を防止した。さらに、ノモンハン戦で最も多く投入されたBT-5戦車は、車体後部にむき出しで大型の円筒形マフラーが設置してあったが、これが灼熱化し火災延焼の原因となっていた。ノモンハン開戦直前に第58特別軍団にはBT-5とT-26とT-37しか配備されていなかったが、第二次ノモンハン事件のソ連総攻撃時には、そのマフラーを廃止し排気管だけを出したBT-5やBT-7が投入されている。 日本側は、7月3日のハルハ河の渡河戦などで、火炎瓶による肉弾攻撃が極めて有効との認識であったのに対し、これらのソ連の対策により戦果が挙がらなくなったため、師団長の小松原は8月22日付の日誌に「敵の優良戦車現出」「サイダー壜を以て肉薄攻撃するも効果なく我軍をして失意せしめたり」と書いている。 なお、日本側の書籍では、火炎瓶対策として、ソ連側が戦車の機関室に金網を取り付けたとの記述も見られるが、BT-5戦車は1934年の初期生産型の段階で、既に機関室グリル上に異物混入防止用の金網製カバーが取り付けてあり、ソ連側の資料にも火炎瓶対策で取り付けたとの記述はない。また、より火災に強いディーゼルエンジンの戦車をソ連軍が投入したとも記述されることがあるが、ディーゼルエンジンを搭載したBT-7戦車の発展型BT-7Mが部隊配備されるのは、ノモンハン事件が停戦となった以降の1939年12月以降のことであった
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