歴史的文書における記載
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『源平盛衰記』に以下の記述がある。 搦手の大将軍には越前三位通盛、三河守知度、侍には越中前司盛俊、上総守忠清、飛騨守景家、三萬餘騎を相具して、志雄山へこそ向ひけれ。彼山は能登加賀越中三箇国の境也。能登路白生を打過て、日角、見室尾、青崎、大野、徳蔵宮腰までぞつゞきたり。 平家は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良嶽の濱に陣を取、旗を上よとて佐良嶽山に赤旗少々指上たり。 この書籍の成立は『平家物語』の先とも後とも言われ、正確な成立年代は不明ながら、宮腰の地名の文献における最古の記載例と考えられる。なお、Harvard-Yangching図書館所蔵『平家物語』長門本には、宮腰や佐良嶽は確認できない。宮腰の地名が『平家物語』に見られるという説は、次に挙げる文献に由来するものかもしれない。『大日本史』巻二百三十列伝百五十七の源義仲に、『源平盛衰記』および『平家物語』によるものとして、以下の記述がある。 維盛僅免、収散卒加賀、保宮腰佐良嶽、源行家率所部兵向志雄山、軍不利、義仲聞之自率騎四萬赴之、敵将平盛俊聞維盛敗、奔于佐良嶽、義仲遂北至加賀、・・・ この佐良嶽は現在の金沢市金石町あたり、犀川河口南岸の砂丘地とを指すと推測される。大野湊神社はこの佐良嶽に元々鎮座していたと考えられ、加賀国宮腰の地名は砂丘上にあった神社の麓(宮の腰)に由来すると考えられる(「温故集録」「加賀志徴」また、下の「石川郡誌における記載」も参照)。地名由来譚として他に、白山の宮の腰という説明もある(大野湊神社を参照)。いずれも、古語「腰」が山裾の意を持つことにちなむ解釈である。南北朝から室町時代初期に成立したと言われる義経記の巻第七目録「判官北国落の事」に、以下のように宮腰の地名が認められる(ただし、加賀国宮越と書かれている箇所もある)。義経記は、室町前期の流通路を伝える資料と考えられている。 武蔵坊申しけるは、「君は是より宮腰へ渡らせ御座しませ、弁慶は富樫が館の様を見て参り候はん」と申しければ、・・・ 「如何に御身一人は御座するぞ」「同行の山伏多く候へども、先様に宮腰へやり候ひぬ。・・・」 馬に乗せられて、宮腰まで送られけり。行きて判官を尋ね奉れども見え給はず。それより大野の湊にて参り逢ひけり。・・・ 『旅行上人絵』によれば、遊行二世他阿真教は、正応4年(1291年)八月、今湊から藤塚を経て小河を渡り宮腰に向かった。『祇陀大智禅師行録』によれば、正中元年(1324年)、祖継大智が中国から高麗を経て加州石川郡普正寺付近の宮腰津に帰国している。これは日宋・日元貿易の交易路が九州だけではなく北陸にも開かれていたことを示している。『得江文書』によれば、応安2年(1369年)九月、越中桃井勢が宮腰に攻め寄せたが、能登吉見勢の発向により大野宿へ退却した。室町期成立の幸若舞曲の『信田』では主人公が人商人に転売され、小浜、敦賀、三国から「かゞの国にきこえたるみやのこし」を経て小屋湊へたどり着く。文明14年(1482年)12月の『大野庄年貢算用状』には、「宮腰塩町在家三郎次郎」がみえる。近世初期成立といわれる『謎立』の八十に「廿四の失(矢)を廿一射てけさかえる みやめ(の)こしさけ」の記載がある。答の「みやのこしさけ」は「宮の腰酒」と読み、船運で京都へ運ばれた加賀酒を指すと考えられる。参考までに、室町後期(1428年頃までに成立か)、一条兼良の手になるといわれる『尺素往来』には、名酒の産地として「賀州宮腰」と記載がある。室町時代の連歌師であり天台僧でもあった飯尾宗祇は、源義経一行が立ち寄ったという大野湊神社(当時は佐那武社)に参詣し、「旅人のみやのこしけん遅桜」の句を詠んだ。この句は大野湊神社境内の石碑に刻まれている。源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫桃井直詮が創作したと言われる幸若舞曲『笈さかし』では、義経・弁慶一行が「みまんどう」で落ち合った後、「みやのこしさらたけの明神」で通夜をした。幸若舞曲『信太』では、主人公小五郎が売られていく経路が記されており、宮腰で売買が成立したことを示している。 わかさのを浜越前のつるか三國のみなと加賀の宮のこしへそ売りたりける物の哀れは多けれ共宮のこしにて留たり 説経節の『をぐり(小栗判官)』では、照手姫が宮腰の商人に買われ、本折、小松の商人に売られている。 よしはら、さまたけ、りんかうし、宮の腰にも、買うて行く、宮の腰の商人が、価が増さば売れよとて、加賀の国とかや本折小松へ買ふて行く 文明6年(1474年)、山城臨川寺重要案文に、美濃守飯尾貞有と丹後守松田秀興の判で、幕府が山城臨川寺領「加賀国大野・宮腰」を還付した記録が残されている。 冷泉為広の『越後下向日記』によると、延徳三年(1491年)、前管領細川政元一行は三月十二日は四ツ時に出立、増泉、石坂を経て犀川を渡り、山崎から浅野川の橋を渡り、浅野、柳橋、シシバラに至り、森本で橋を渡ると、遠く左に宮腰の浜が望め、波が陽光に輝いていた、と記述されている。 太田牛一によって書かれ江戸時代初期成立の信長公記にいかの記述が見える。 湊川、手取川打越、宮之腰に陣取所々放火。一揆野の市と云所、川を前に当楯籠。柴田修理のゝ市之一揆追払数多切捨 数百艘の舟共に兵粮取入分捕させ・・・ なお源義仲(木曽義仲)にかかわりの深い木曽宮の腰(越)は中仙道の宿場であり、加賀国宮腰とは別である。貝原篤信によって書かれた「木曽路之記」に記載がある。歌川広重の木曾街道六拾九次続絵にはこの「宮の越」が描かれている。
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