歴史的文書における記載とは? わかりやすく解説

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歴史的文書における記載

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 20:03 UTC 版)

宮腰」の記事における「歴史的文書における記載」の解説

『源平盛衰記』に以下の記述がある。 搦手大将軍には越前三位通盛三河守知度、侍には越中前司盛俊、上総守忠清、飛騨守景家、三萬餘騎を相具して、志雄山へこそ向ひけれ。彼山は能登加賀越中三箇国の境也。能登路白生を打過て、日角、見室尾青崎大野徳蔵宮腰までぞつゞきたり。 平家は礪並山を落されて、加賀国宮腰佐良嶽の濱に陣を取、旗を上よとて佐良嶽山に赤旗少々指上たり。 この書籍成立『平家物語』の先とも後とも言われ正確な成立年代不明ながら、宮腰地名文献における最古記載例と考えられる。なお、Harvard-Yangching図書館所蔵『平家物語』長門本には、宮腰佐良嶽確認できない宮腰地名『平家物語』見られるという説は、次に挙げる文献由来するものかもしれない。『大日本史』巻二百三十列伝五十七の源義仲に、『源平盛衰記』および『平家物語』よるものとして、以下の記述がある。 維盛僅免、収散卒加賀、保宮腰佐良嶽源行家所部兵向志雄山、軍不利、義仲聞之自率騎四萬赴之、敵将平盛俊維盛敗、奔于佐良嶽義仲遂北至加賀、・・・ この佐良嶽現在の金沢市金石町あたり、犀川河口南岸砂丘地とを指すと推測される大野湊神社はこの佐良嶽に元々鎮座していたと考えられ加賀国宮腰地名砂丘にあった神社の麓(宮の腰)に由来する考えられる(「温故集録」「加賀志徴」また、下の「石川郡誌における記載」も参照)。地名由来譚として他に、白山の宮の腰という説明もある(大野湊神社参照)。いずれも古語「腰」が山裾の意を持つことにちなむ解釈である。南北朝から室町時代初期成立したと言われる義経記の巻第七目録判官北国落の事」に、以下のように宮腰地名認められる(ただし、加賀国宮越と書かれている箇所もある)。義経記は、室町前期流通路を伝え資料考えられている。 武蔵坊申しけるは、「君は是より宮腰へ渡らせ御座しませ、弁慶富樫が館の様を見て参り候はん」と申しければ、・・・ 「如何に御身一人御座するぞ」「同行山伏多く候へども、先様宮腰へやり候ひぬ。・・・」 馬に乗せられて、宮腰まで送られけり。行き判官尋ね奉れども見え給はず。それより大野の湊にて参り逢ひけり。・・・ 『旅行上人絵』によれば遊行二世他阿真教は、正応4年1291年八月、今湊から藤塚経て小河渡り宮腰向かった。『祇陀大智禅師行録』によれば正中元年1324年)、祖継大智中国から高麗経て加州石川郡普正寺付近宮腰津に帰国している。これは日宋・日元貿易交易路九州だけではなく北陸にも開かれていたことを示している。『得江文書によれば応安2年1369年九月越中桃井勢が宮腰攻め寄せたが、能登吉見勢の発向により大野宿へ退却した室町期成立幸若舞曲の『信田』では主人公人商人転売され、小浜敦賀三国から「かゞの国にきこえたるみやのこし」を経て小屋湊へたどり着く文明14年1482年12月の『大野庄年貢算用状』には、「宮腰塩町在家三郎次郎」がみえる。近世初期成立といわれる『謎立』の八十に「廿四の失(矢)を廿一射てけさかえる みやめ(の)こしさけ」の記載がある。答の「みやのこしさけ」は「宮の腰酒」と読み船運京都運ばれ加賀酒を指すと考えられる参考までに室町後期1428年頃までに成立か)、一条兼良の手になるといわれる尺素往来』には、名酒産地として「賀州宮腰」と記載がある。室町時代連歌師であり天台僧でもあった飯尾宗祇は、源義経一行立ち寄ったという大野湊神社当時佐那武社)に参詣し、「旅人のみやのこしけん遅桜」の句を詠んだ。この句は大野湊神社境内の石碑に刻まれている。源義家から10代後の桃井播磨守直常の孫桃井直詮創作したと言われる幸若舞曲『笈さかし』では、義経弁慶一行が「みまんどう」で落ち合った後、「みやのこしさらたけの明神」で通夜をした。幸若舞曲信太』では、主人公小五郎売られていく経路記されており、宮腰売買成立したことを示している。 わかさのを浜越前のつるか三國のみなと加賀の宮のこしへそ売りたりける物の哀れ多けれ共宮のこしにて留たり 説経節の『をぐり(小栗判官)』では、照手姫宮腰商人買われ、本折、小松商人売られている。 よしはら、さまたけ、りんかうし、宮の腰にも、買うて行く、宮の腰の商人が、価が増さば売れよとて、加賀の国とかや本折小松へ買ふて行く 文明6年1474年)、山城臨川寺重要案文に、美濃守飯尾貞有と丹後守松田秀興の判で、幕府山城臨川寺領「加賀国大野宮腰」を還付し記録残されている。 冷泉為広の『越後下向日記』によると、延徳三年1491年)、前管領細川政元一行三月十二日は四ツ時に出立増泉石坂経て犀川渡り山崎から浅野川渡り浅野柳橋、シシバラに至り森本橋を渡ると、遠く左に宮腰の浜が望め、波が陽光輝いていた、と記述されている。 太田牛一によって書かれ江戸時代初期成立信長公記にいかの記述見える。 湊川手取川打越、宮之腰に陣取所放火一揆野の市と云所、川を前に籠。柴田修理のゝ市之一揆追払数多切捨 数百艘の舟共に兵粮取入分捕させ・・・ なお源義仲木曽義仲)にかかわりの深い木曽宮の腰(越)は中仙道宿場であり、加賀国宮腰とは別である。貝原篤信によって書かれた「木曽路之記」に記載がある。歌川広重木曾街道六拾九次続絵にはこの「宮の越」が描かれている。

※この「歴史的文書における記載」の解説は、「宮腰」の解説の一部です。
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