歴史的文脈での「協同組合主義」とは? わかりやすく解説

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歴史的文脈での「協同組合主義」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 09:13 UTC 版)

協同組合」の記事における「歴史的文脈での「協同組合主義」」の解説

詳細は「三木武夫」を参照 日本では1900年産業組合法制定され強い影響力を持つ大企業に対して零細企業保護連帯進め政策展開された。そのため、ここに活動基礎を置く「協同組合主義」は、大資本意向最優先となる資本主義労働者第二次世界大戦前の「無産者」)の権利拡大する社会主義とは異なる「第三の道」として提唱された。特に第二次世界大戦敗北した直後1940年代後半日本では山本実彦委員長とした日本協同党協同民主党、そしてこれを継いだ国民協同党への流れとして続いた。これは資本主義掲げ保守政党日本自由党民主党社会主義共産主義実現求め革新政党日本社会党日本共産党とは一線を画し中道政治勢力として機能した日本協同党多く議員公職追放対象者となって大きな打撃受けたが、全国各地結成され地域政党からの合流によって協同主義勢力発言力維持し1947年から1948年まで片山内閣芦田内閣では、国民協同党社会党民主党組んだ三党連立内閣与党となったその後保守勢力改編が続く中で国民協同党呑み込まれ最終的に船田中など多くメンバー1955年保守合同成立した自由民主党参加して協同組合主義」の主張姿を消したが、国民協同党委員長党首)として片山内閣逓信大臣経験した三木武夫自民党三木派率い、最左派非主流派として保守傍流置かれながらも、1974年自由民主党総裁・内閣総理大臣となって三木内閣組閣した。三木首相として市場独占する大企業分割を含む独占禁止法改正目指し大幅な修正曲折経て社会党を含む野党支持により同法案を衆議院通過させたが、参議院では自民党内の反発抑えられずに廃案になり、党内孤立による三木影響力低下一因となった。ただし、1976年下野後も含め三木政治哲学には「協同組合主義」がずっとあったという指摘が妻の睦子、さらに政治路線では三木とは異な中曽根康弘などからなされている。 一方1942年第21回衆議院議員総選挙翼賛選挙)で当選していた吉田正終戦直後起きた上記協同主義勢力結集参加していたが、1952年第25回衆議院議員総選挙国政復帰した時は右派社会党所属となっていた。吉田はその在職中農民中心企業志して協同乳業設立し同社大手企業との提携続けながらも存続している。 1970年代以降生活クラブ生活協同組合から起こった代理人運動協同組合議会進出した例の一つである。主に都市部中心に今も地方議員多数擁している

※この「歴史的文脈での「協同組合主義」」の解説は、「協同組合」の解説の一部です。
「歴史的文脈での「協同組合主義」」を含む「協同組合」の記事については、「協同組合」の概要を参照ください。

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