構想、契約および建造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/06 04:24 UTC 版)
「ミシシッピ (装甲艦)」の記事における「構想、契約および建造」の解説
ネルソン・ティフト(Nelson Tift)はフロリダ州で育ったが、25歳のときにジョージア州に移住し、そこで有名人となった。ティフト郡および郡庁所在地のティフトン (Tifton)は彼の名前にちなんだものである。南北戦争が勃発すると、ネルソンは北部海軍に対抗するには、南部が直面するいくつかの困難があることを理解した。マロリー海軍長官はほぼゼロから海軍を作り上げようとしていたが、南部には造船所が無いだけではなく、熟練した造船工もいなかった。従来の方法で工員の訓練を行うには時間がかかりすぎるため、ネルソンは家屋の建設手法を取り入れるというアイデアを思いついた。船独特の曲線部分は無くし、側面は平面とし、艦首と艦尾のとがった部分および船体と艦首・艦尾の取り付け部分を除き、全ての角を直角とした(ページ右上の図を参照のこと)。彼は彼のアイデアを取り入れた模型を作り、それをもとに更なる提案をした。 ネルソンの弟であるエイサ・ティフトAsa F. Tiftは、ネルソンと共に働くことに合意した。エイサはネルソンがジョージアに移住した後もフロリダに留まっており、彼の協力は重要であった。エイサはキーウェストでビジネスマンとして成功しており、マロリーが合衆国上院議員になる前からの知り合いであった。エイサとマロリーがビジネスを通じて結びついていたという証拠は無いが、この友人関係が計画の進展をもたらした。ティフト兄弟はマロリーに模型を見せ、マロリーはこれを海軍審査委員会で提示した。委員会が計画は実行可能であると判断すると、マロリーは兄弟をニューオーリンズに向かわせ、彼らのアイデアを現実のものにすることを承認した。そこで二人はスクリュー3軸推進で、大砲18門と搭載するまだ名前の決まっていない装甲艦の建造を監督することとなった。 契約内容も通常ではなかった。ティフト兄弟には必要経費以外の給与は支払われなかった。また、改善が期待できる場合は建造計画を途中で変更することも認められていた。就役予定日や予算も定められていなかった。全てはティフト兄弟の技術と誠実さに委ねられていた。マロリー長官は以下のように述べていた。 海軍省は、艦艇の設計と製造を最短の期間および低いコストで実現することにおいて、貴殿が愛国心、正確な判断および思慮深さもって、自身のお金で自身の船を作るのと同様に計画を進めるものであると信頼する。 兄弟が最初に直面した問題の一つは、想定した大きさの艦艇を作るに十分な大きさの造船所を探すことであった。ニューオーリンズ近郊では見つけることが出来なかったため、ミズーリ州ジェファーソンシティの少し北の川辺に自身の造船所を作ることとした。ルイジアナの建造でも同じ問題が生じており、やはり同じ手法で解決している。ミシシッピとルイジアナの2隻の巨艦は同時に建造が進められることとなった。このため、ミシシッピが語られるときは、常にルイジアナと共に語られることとなる。 最初の厚板(Plank(それをキールと呼ぶのは多分正しくない)が据付けられたのは1861年10月14日であった。最初予定していたエンジンでは予定速度が得られないことがすでにわかっていたため、ボイラーを追加することとなった。このため、艦の全長は252フィート(78.8m)と当初予定より長くなった。長さが伸びた分、艦載砲の数は予定の18門から20門に増加した。ちなみに、南軍最初の装甲艦であるバージニアは12門、ルイジアナは16門であった。いくつかの事情により、最初から建造は遅れた。部品と素材の確保の遅れが最も顕著であったか、労働問題も生じ、現地の軍事組織からの妨害もあった。これらを順に解決していく必要があった。 装甲用の鉄は連合国のどこでも不足しており、ニューオーリンズでは見つけることができなかった。最終的には、アトランタで十分な厚さの鉄板を製造できる工場を見つけることができた。しかし、すでに酷使されている鉄道を利用して鉄材を輸送することは、散発的にしかできなかった。アトランタで鉄板の出荷まで何週間も待たされることもときどき生じた。最後の鉄板がニューオーリンズに届いたのは、ミシシッピが自焼した日であった。エンジンとスクリュー軸の問題も重なった。前述したようにボイラーサイズを拡大したため、工期がいくらか遅れた。エンジンの工事は1月には終了する契約となっていたが、実際には4月まで据付けられなかった。しかしながら、最大のメカニカルトラブルは、3本のスクリュー軸の製造であった。外側の2本の軸はニューオーリンズの工場でなんとか製造できた。しかし、最も長い中央の軸は、南部のどこでも製造できなかった。10月になって、難破船のスクリュー軸が使用可能なことが転用できることが分かったが、バージニア州のトレッドガー鉄工所(Tredegar Iron Works)かゴスポート海軍工廠(Gosport Navy Yard)でなければ、必要な改造加工はできなかった。スクリュー軸が完成した後、鉄道で運送する必要があった。出荷できたのは3月26日であった。スクリュー軸は3本とも船体に取り付けられたが、エンジンに結合されることはなかった。また、外側のスクリュー2個は、最後まで波止場に置かれていた。 建造が開始された直後の11月には労働問題も生じた。全ての造船所の工員が、日給を3ドルから4ドルにあげることを要求してストライキを行った。他の造船所の経営k者はストライキが終了するのを待つことにしたが、ティフト兄弟は1週間後に賃上げに応じた。結局他の経営者も追従せざるを得なかった。その後すぐに別の問題が生じた。ミシシッピとE.C.マレーが建造しているルイジアナが、同じ種類の熟練工を必要としていたのである。問題解決のために、ティフト兄弟とマレーは労働者を融通しあうことに合意し、ルイジアナの建造が優先されることとなった。 該当年齢の男性はパレードへの参加も含めて民兵として活動させるという、この地方の軍事ポリシーも建造を遅延させた。知事への抗議は却下された。ティフト兄弟とマレーはマンスフィールド・ロベル(Mansfield Lovell)少将に対し、造船所の工員は例外扱いしてくれるように依頼した。ロベルはこれに合意し命令も出されたが、この習慣は継続された。 これらの要因で何日の工期の遅れが生じたかを単純に計算することはできないが、明らかにこれらによる損失は重大であった。ニューオーリンズが降伏し、ミシシッピが自焼したずっと後に、ネルソン・ティフトはミシシッピの完成までにはまだ2-3週間は必要であったと述べている。(他方、シンクレア艦長は完成までには10週間は必要であったと見積もっていた)。
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