構想の概要とは? わかりやすく解説

構想の概要

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:26 UTC 版)

大東亜縦貫鉄道」の記事における「構想の概要」の解説

1937年昭和12年7月7日盧溝橋事件に伴い日中戦争勃発すると、日本中国方面への進出図っていくが、後に近衛文麿1938年昭和13年12月に「(日中戦争目的は)東亜新秩序建設」などの声明文発表するなどして、「日本中心としたアジアにおける新体制確立」を目標とするようにもなっていた。 1941年昭和16年7月仏印進駐がなされ、同年12月8日真珠湾攻撃に伴い太平洋戦争大東亜戦争当時呼称)が勃発すると、本格的にアジア方面日本進出していくことになる。そうした中、前述した新体制確立に関する運動もさらに盛り上がり、「大東亜共栄圏構想へと繋がっていくことになった鉄道などの交通分野においても、これらの動き乗ずるようにして1930年代から新東建設」(日本満州中国の経済一体化など)や「東亜交通権確立」など、アジア方面における研究論文積極的に発表されるようになった。それと1940年昭和15年7月26日閣議決定された「基本国策要綱」において、「日満支を一環にし、大東亜包括する皇国による、自給自足経済政策確立すること」が謳われたこともあり、1941年昭和16年5月には大東亜共栄圏における新たな交通について研究する機関の、「東亜交通学会」が設立された。 その頃日本では輸送力限界達しようとしていた東海道本線・山陽本線増強目的に、「広軌標準軌)による別線敷設計画」(俗に弾丸列車計画」と呼ばれる)が打ち出され1940年昭和15年)には用地買収建設部分的に開始されていた。 東亜交通学会では、この弾丸列車計画接続することも考慮し朝鮮半島釜山起点として南満州鉄道華北交通華中鉄道などを包括、さらにアジア全域拡大する壮大な鉄道計画打ち出した前述した太平洋戦争は、初めのうちは支配区域東南アジア各地拡大させることに成功していたため、これらの計画具体性持って検討なされたのである1942年昭和17年8月には閣議において、東及び東南アジア交通政策縦貫鉄道建設する計画検討する大東亜建設審議会」の設立決定するなど、その動きは一層活発になっていった日本本土朝鮮半島を結ぶ朝鮮海峡トンネルでさえ、実際に開削検討なされたほどである。 結局、これらの計画のほとんどは日本の敗戦によって頓挫し軍用鉄道として突貫完成した泰緬鉄道のような、その一部実現した数少ない路線も、廃線追い込まれている。

※この「構想の概要」の解説は、「大東亜縦貫鉄道」の解説の一部です。
「構想の概要」を含む「大東亜縦貫鉄道」の記事については、「大東亜縦貫鉄道」の概要を参照ください。

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