村の伝承
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元禄9年7月24日(1696年8月21日)、大野集落の南に流れる古川に接する清兵衛宅(勘四郎宅という説もあり)付近で、久保田藩士の黒澤市兵衛という一人の武士が釣りをしていた。そこへ舟に柴を満載した市蔵と仁蔵という兄弟が通りかかったところ、柴の端が黒澤の釣糸にひっかかった。黒澤は烈火の如く怒ったので、兄弟は平謝りに謝ったが、黒澤はおさまらない。兄弟が「逃がしたお魚が悔しかったなら、わし等二人で早速獲って進ぜます」と言うと、黒澤はかえって逆上して「下賎の身二つ一刀の下に叩き斬ってやる」と言った。すると兄弟は「百姓を下賎とは解せぬお言葉。お武家様が頂戴します御禄は一体誰が進上するとお思いなさる」と返す。 3人はついに喧嘩となるが、武士といえど棹を持った複数の相手では分が悪く、黒澤は二人の勢いに押されて堰にはまり、意識を失ってしまった。二人は黒澤が死んだと思い、放置してそのまま帰宅した(黒澤は気絶したのでなく、勝てぬとわかって死人を装っていたという伝承もある)。黒澤は夜になってほうほうの体で帰宅し、事の顛末を同僚達に訴えた。自分の身によほど有利な訴えをしたものらしく、同僚から同情を得た黒澤は報復を企てた。内々に4ヶ月にわたって犯人を捜したが、村民達は口を割らなかった。武士たちはこの村の主人全部を斬罪に処する他はないと私刑を企て、古川沿いの低所に急造の藁小屋を建てた。 10月12日(1696年11月6日)、取り調べの筋があると集落の家々に伝えて、家の主人を呼び出した。取り調べと偽って、前方のムシロをまくして一人一人小屋の中に入れた。小屋の中には穴が掘られていて、穴の傍らには抜刀の武士が数人かたまっていた。入って来た百姓を無言のまま槍で突き刺し、倒れる所を後方の刀がばっさりと首をはね、そのまま穴の中に落とした。小屋の外にいた家族が、外に出てきた武士に尋ねたところ「罪人のかどで撫で斬りにいたした」と答える。家族は泣き叫びつつ悲報を伝えるべく村に走った。羽織袴で駆けつけた肝煎の工藤七郎左衛門が「拙者に一言の挨拶もなく、百姓を咎人として引き立てるのは筋道が立ちません。御領主の命による御取り調べでしょうか」と言うと、みなまで言わぬうちに武士は工藤を斬り殺した。殺されたのは全部で22人であった。 久保田城下の梅津邸から斬殺を思いとどまらせる為の急使が送られたが、使者が武士達に出会った時は既に斬殺を終え引き上げて来るところであった。梅津家はこの地域の地頭で、黒澤市兵衛の主人であった。使者が「梅津様より取り止めのご沙汰」と言うのに対し「もう切上終わった」と武士達は答えた。この「切上」が由来となり、現地の集落を「切上」と呼ぶようになったという(ただしこれは単に村の端を意味する地名が伝承と関連付けられた可能性がある)。 伝説によれば、同じ家より2名殺されたとか、老婆が事変を予知し倅を小屋によこさなかった家が1軒あるという話もある。また斬殺の際、返り血を浴びるのを避ける為に槍の穂に藁束を巻いたというので、村では藁箒の使用を嫌ったという。また、怨念に悩まされた村人は夜に外に出るのを恐れ、便所を家の中に造ったと伝えられている(当時の民家の多くは、便所は家の外にあった)。村には当時より遺族によって営まれてきた郷念仏講と称するものがある。当初は月一回輪番の家で行われたものの、春秋2回となり、命日の陰暦10月12日に回向を続けている。 過去帳には斬殺された農民の法名が記録されていて、22人の他に1人女性がいる。この女性は斬殺を悲観し悶絶死したものであろうとされる。22人は罪人とされたため、菩提所に入れることは遠慮され、現在の東光寺の南隅に如来堂という庵寺を建て位牌を安置した。以来、同寺は庵住様と言われていた。明治初年、川尻村にあった東光寺が廃寺になるとき、仁井田村の有志が譲り受け、1886年(明治19年)に如来堂の敷地を包む位置へ現在の東光寺を建立した。その時、位牌や不動産は寺に移管された。 石塔は百回忌になる寛政7年10月12日(1795年11月23日)に建てられたものである。元は大野集落の墓地にあったが、墓地が新設されるため移動された(現在は供養塔の脇にある)。五輪塔は150回忌の弘化2年(1845年)に建てられたもので、高さ7尺である。摩耗して刻まれた字ははっきりとしない。 撫斬の場所ははっきりしないが、大野村新中島橋付近の俗称やぶれの地点であると異口同音に伝えられている。明治初年頃、その付近は村の採土地であり、時折同地から多数の人骨が発掘されたという。 大野村は、久保田藩の重臣である梅津半右ェ門家の開創で、百姓は梅津家の百姓であった。古川は元は大野川と言い、雄物川の下流で雄物川の開鑿後主流を失っていた。フナやクキの釣り場で、城下から釣りにやってくる武士の出入りが多く、中には乱暴を働く者もいた。地元ではこれらの釣り人をダンボと呼び、長い間摩擦が絶えなかった。
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