昭和恐慌と高橋財政
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「リフレーション」の記事における「昭和恐慌と高橋財政」の解説
「日本国債#戦前の政策」も参照 濱口雄幸内閣の井上準之助蔵相が主導した金解禁により、金本位制に復帰した日本は、折からの世界恐慌にも巻き込まれ、昭和恐慌と呼ばれる深刻なデフレ不況に陥った(1930年-1931年11月の消費者物価は-10.8%)。中でも価格下落が激烈だったのは農産物で、1930年の下落率は34%に達し、農村の生活は破壊された。石橋湛山や高橋亀吉ら、従来より旧平価による金解禁に反対していた新平価金解禁派の経済学者たちは、井上の財政を批判し、インフレ誘導によるデフレ不況克服を訴えた。石橋らはインフレ誘導という言葉のイメージの悪さを忌避してリフレーションという用語を多用したという。 やがて濱口首相暗殺後、若槻禮次郎内閣を経て、立憲政友会の犬養毅内閣が成立すると、蔵相に就任した高橋是清は、事実上のリフレ政策を断行する。 金輸出再禁止後、対前年比で10%のデフレが急速に終息に向かい、国債の日銀引き受けが始まる2ヶ月前から、3%前後のインフレへと急速に変化した。 金輸出を再び禁じて金本位制から離脱し、国債の日本銀行(日銀)引き受けを通じて市場に大量のマネーを供給することで、金融緩和を推進した。同時に海外に資金が流出してしまうと、金利が上昇する恐れがあるため、1932年(昭和7年)7月に資本逃避防止法を設定して対外証券投資を禁じ、1933年(昭和8年)3月に外国為替管理法により、資本流出と為替の統制を行った。このため、国際金融市場と国内金融市場が途絶し、ポンド建て国債と円建て国債の価格差が発生することとなった。 金輸出再禁止直前である1931年12月12日の大阪毎日新聞の社会面は「金が再金論になったら-物価は飛び上がる/サラリーマンは受難だ/儲けるのは事業家ばかり/某財閥は一攫千金」という見出しで一般大衆のインフレ恐怖を煽っている。 1932年に入って、高橋財政が本格的に発動された1年を扱う、新聞はリフレ政策による景気回復を「空景気」と警戒していたが、日銀の利下げ、大蔵省債券・政府公債の日銀引き受けなどの金融政策による景気回復が本格的になると「空景気」警戒の論調は大きく後退していった。 その後1935年(昭和10年)、岡田啓介内閣の蔵相時に公債漸減の方針を打ち出し、軍事費の圧縮に乗り出し財政再建に転じた。 そのため高橋は軍事費削減を恐れた軍部によって1936年(昭和11年)2月26日に暗殺される(二・二六事件)。田中秀臣は「兵士たちはリフレ政策による景気回復の果実が自分たちの出身階層・地域に及ぶまで待つことができなかった」と指摘している。 高橋財政の1932-1933年度では軍事支出は、対前年比で40-60%の伸びであったが、1934-1935年度では軍事支出は、10%台の伸びに低下している。二・二六事件後は、軍事支出は対前年比20-40%の伸びが継続していった。 高橋によって生み出されたマクロ経済政策の枠組みは、リフレーションによる景気回復という本来の目的を逸脱し、第二次世界大戦のための軍事費の調達という色彩を強めていった。その後日銀の国債引き受けは悪用され、インフレが高進した。悪用が生じた本質は軍部の専横にある。二・二六事件以後、インフレ率は10%台に上昇し、国民の消費生活は貧しくなった。 1939年には価格等統制令(昭和14年勅令第703号)が発せられ、産業資材や生活物資は公定価格に一本化され物価は商工省下の価格形成委員会(中央・地方)により決定されたが、このことは闇市の形成をもたらし、推計では1940年(昭和15年)(太平洋戦争前)ではインフレ率は16%となった[要出典](これは狂乱物価時代(1974年(昭和49年))の23.2%を下回る)。 日本銀行の調査によれば、1934-1936年の消費者物価指数を1とした場合、1954年は301.8と8年間で物価が約300倍となった。このインフレの原因は戦前から戦中にかけての戦時国債、終戦後の軍人への退職金支払いなどの費用を賄うために政府が発行した国債の日本銀行の直接引き受けとされている。第二次世界大戦中に発行した戦時国債は、デフォルトはしなかったが、その後戦前比3倍の戦時インフレ(4年間で東京の小売物価は終戦時の80倍)によってほとんど紙屑となった。 1947年にはインフレ率(消費者物価指数)は125%に達した。
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