昭和恐慌と満州事変
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「昭和恐慌と満州事変」の解説
詳細は「昭和恐慌」および「満州事変」を参照 満州某重大事件の処理について昭和天皇の怒りを買って田中義一内閣が倒れた後、濱口雄幸内閣が誕生すると、蔵相井上準之助は産業の合理化、旧平価による金解禁で日本経済を立て直そうとした。しかし、世界恐慌で世界の経済状態が大混乱に陥っているときに、1930年1月11日金解禁を実施したこともあり、日本経済はまたもや恐慌に陥った(昭和恐慌)。 同年11月、濱口首相がロンドン海軍軍縮条約調印にともなう統帥権干犯問題により右翼に狙撃され、内閣が倒れると、同じ立憲民政党から第2次若槻内閣が成立したが、有効な対策を講じることができないまま1931年9月の満州事変の勃発により早々と倒れ、同年12月、立憲政友会の犬養毅内閣が成立した。犬養内閣の高橋是清蔵相は、ただちに金輸出を再禁止し、日本は管理通貨制度へと移行し、民政党政権が行ってきたデフレ政策を180度転換、軍事費拡張と赤字国債発行によるインフレーション政策を行った。金輸出再禁止により、円相場は一気に下落し、円安に助けられて日本は輸出を急増させた。輸出の急増に伴い景気も急速に回復し、1933年にはソ連を除く他の主要国に先駆けて恐慌前の経済水準を回復した。 高橋のインフレ政策には、軍拡的な意味合いも含まれていたが、景況改善後の資源配分転換と国際協調の流れに併せた機動的軍縮が、のちに肥大化した軍部に阻まれることとなる。 満州事変におけるあまりにも鮮やかな軍事的成功の時期と恐慌からの脱出の時期が重なったことは、既成政党の政権争いに不信をいだいていた国民に「頼りになるのは軍部」という考えを浸透させることとなった。 しかし、その一方で日本の軍事行動は国際的に批判され、中国の提訴によって派遣されたリットン調査団は事変は自衛権の発動によるものであるという日本側の主張をしりぞけ、国際連盟もそれを支持したので、1933年3月、連盟の脱退を通告した。また円安による輸出の増加は先進諸国よりソーシャル・ダンピングだとの批判を浴び、日本は国際的に孤立の度を深めた。
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