昭和戦前期の共楽館
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昭和初期の共楽館の運営形態は大正時代と大きな変化はなかった。歌舞伎はしばしば上演されており、歌舞伎以外では1934年(昭和9年)には舞踊家の石井漠一行の舞踊が満員の客を集め、同年、日立鉱山音楽隊創立記念演奏会に奥田良三らが出演した。同じ頃、当時人気絶頂期であった女性歌手の小唄勝太郎の公演も大盛況の中で行われた。1935年(昭和10年)には石井漠とともにやはり舞踏家として著名であった崔承喜が特別出演している。このように共楽館では当時流行の舞踊や歌手の公演がしばしば行われ、多くの人々を集めていた。やはり大正期と同じく、横綱宮城山福松、西ノ海嘉治郎一行、大関男女ノ川登三、関脇能代潟錦作一行らが共楽館を会場として相撲巡業を行い、浪花節や民謡会などの催しも行われた。 なお、1935年(昭和10年)には日立製作所の福利厚生施設である日立会館がオープンすると、日立鉱山は日立製作所と協議して、歌舞伎や一流の芸能人を呼ぶ際には共楽館、本山劇場という日立鉱山の劇場とともに、日立会館でも興行を行うようにした。これは興行が多く行えればより一流の芸能人を呼びやすくなるためであった。そして1940年(昭和15年)頃、日立鉱山の支山である諏訪鉱山が全盛期を迎え、諏訪会館という福利厚生施設が建てられた。諏訪会館でも共楽館、本山劇場、日立会館と同様の興行を行うように要望されたものの、それは困難であったため共楽館などで行われた一部の興行を諏訪会館でも行うようになった。 温交会主催の日立鉱山職員、家族の素人演芸会は大変な人気で、極めて盛んに行われた。演芸会は共楽館を会場として鉱山の各部署対抗形式で職場を挙げて行われ、芸達者な職員、家族による多彩な芸が披露された。このような中、素人演芸会からアマチュアの劇団が結成されて新派系の演劇を公演するようになり、日立鉱山の後援も受けて共楽館と本山劇場で毎月安全劇を公演するという活動も行われた。 他に日立鉱山の職員関係で共楽館を利用した催しとしては、当時地方出身者が多かった日立鉱山で、同郷の人たちが集まって結成された故郷を偲ぶ県人会、郡友会、郷友会などがある。共楽館での県人会は秋に行われることが多かったという。また先述のように地方に住む親族、知人を夏の山神祭、正月興行などに招待し、一緒に楽しむことも多かった。 映画上映は、これまでのサイレント映画に代わりトーキーが主流となっていった。1933年(昭和8年)には暴君ネロ、楠公父子、翌1934年(昭和9年)は非常時日本というトーキーの上映が行われたとの記録が残っている。また1932年(昭和7年)9月25日、ロサンゼルスオリンピックの活動写真会が行われている。
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