昭和戦前期の共楽館とは? わかりやすく解説

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昭和戦前期の共楽館

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/29 23:42 UTC 版)

共楽館」の記事における「昭和戦前期の共楽館」の解説

昭和初期共楽館運営形態大正時代大きな変化はなかった。歌舞伎はしばし上演されており、歌舞伎以外では1934年昭和9年)には舞踊家石井漠一行舞踊満員の客を集め同年日立鉱山音楽隊創立記念演奏会奥田良三らが出演した。同じ頃、当時人気絶頂期であった女性歌手小唄勝太郎公演大盛況の中で行われた1935年昭和10年)には石井漠とともにやはり舞踏家として著名であった崔承喜特別出演している。このように共楽館では当時流行舞踊歌手公演がしばしば行われ、多く人々集めていた。やはり大正期同じく横綱宮城山福松西ノ海嘉治郎一行大関男女ノ川登三関脇能代潟錦作一行らが共楽館会場として相撲巡業行い浪花節民謡会などの催し行われた。 なお、1935年昭和10年)には日立製作所福利厚生施設ある日立会館がオープンすると、日立鉱山日立製作所協議して歌舞伎や一流の芸能人を呼ぶ際には共楽館本山劇場という日立鉱山劇場とともに日立会館でも興行を行うようにした。これは興行多く行えればより一流芸能人呼びやすくなるためであった。そして1940年昭和15年)頃、日立鉱山の支山である諏訪鉱山全盛期迎え諏訪会館という福利厚生施設建てられた。諏訪会館でも共楽館本山劇場日立会館同様の興行を行うように要望されたものの、それは困難であったため共楽館などで行われた一部興行諏訪会館でも行うようになった。 温交会主催日立鉱山職員家族素人演芸会は大変な人気で、極めて盛んに行われた演芸会は共楽館会場として鉱山各部署対抗形式で職場挙げて行われ芸達者職員家族による多彩な芸が披露された。このような中、素人演芸会からアマチュア劇団結成され新派系の演劇公演するようになり、日立鉱山後援受けて共楽館本山劇場毎月安全劇を公演するという活動行われた。 他に日立鉱山職員関係で共楽館利用した催しとしては、当時地方出身者多かった日立鉱山で、同郷の人たちが集まって結成され故郷偲ぶ県人会、郡友会、郷友会などがある。共楽館での県人会秋に行われること多かったという。また先述のように地方に住む親族知人夏の山神祭正月興行など招待し一緒に楽しむことも多かった映画上映は、これまでのサイレント映画代わりトーキー主流となっていった。1933年昭和8年)には暴君ネロ楠公父子、翌1934年昭和9年)は非常時日本というトーキーの上が行われたとの記録残っている。また1932年昭和7年9月25日ロサンゼルスオリンピック活動写真が行われている。

※この「昭和戦前期の共楽館」の解説は、「共楽館」の解説の一部です。
「昭和戦前期の共楽館」を含む「共楽館」の記事については、「共楽館」の概要を参照ください。

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