人気絶頂期
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『おトラさん』シリーズの出演で大人気女優となった若水は、1959年(昭和34年)『おヤエのママさん女中』に初主演。この映画も大ヒットし、この『おヤエ』シリーズは全部で8作が製作されるほどの人気ぶりだった。しかも、この当時の映画業界では東宝、新東宝、松竹、日活、東映による五社協定が結ばれており、この協定のために専属俳優陣は作品出演の自由が利かなかったのに対して、どこの専属女優でもなかった若水はそのような制約が一切無く、全ての映画会社の映画に出演していたほど自由で幅広い活躍ぶりを見せていた。こうして若水は女性コメディアン、喜劇女優としての不動の地位を築いた。 喜劇物の映画が中心で三枚目キャラでの出演が多かったために「東北弁訛りの田舎娘」や「ひょうきん爆笑女」と言うイメージが強かった若水だが、元々の美貌や歌、演技能力も非常に高く、歌や演技の上手い美人女優として『月光仮面』などの映画やドラマにもレギュラー出演し、奥様役から恋人役まで何でも器用にこなしていた。努力家で休憩時間や休日は常に台本に目を通し、自分の役回りを研究していたと言う。 40歳を過ぎた1968年(昭和43年)頃からは奥様役だけではなく中年の母親役や老婆役も多くなり、「戦うお母さん女優」や「おばあちゃん女優」としても活躍した。また、それまでの活動の中心だった映画やテレビドラマの出演だけでなく、本業だった舞台女優(歌手)のノウハウを活かして舞台や歌手活動にも活躍の場を伸ばして積極的な活動を続け、1971年(昭和46年)3月にポリドールレコードより「若水ヤエ子とひまわりキティーズ」名義で『かあちゃんと子供のアンダンテ・カンタービレ』(カップリングは『東北流れ者』)をリリースした。1970年(昭和45年)2月10日にリリースされ、40万枚の売り上げで大ヒットした左卜全の「老人と子供のポルカ」と同じ作詞者、作曲者だったため二番煎じの歌と評されたものの、曲の中には若水らしいコミカルな一面を随所に遺しており、コミックソングとしては異例のスマッシュヒットを飛ばしている。若水はこのレコードをリリースしてからわずか2年後に死去してしまったため、レコード発売はこの1枚のみに止まってしまったが、それなりにヒットした事は彼女が昭和30~40年代にかけて国民的な喜劇女優として活躍したことを物語っている。 そのためか、この時期の若水は多忙に多忙を重ねた過酷な毎日を送っており、ほとんど休日が無かったと言う。夫の村上清寿は1968年(昭和43年)にオリオン出版社より「笑わせる女―喜劇女優・若水ヤエ子を妻に14年」を出版しており、若水は放送作家としてなかなか大成しない村上を裏でよく支える良妻で、疲労困憊でどんなに体調を崩しても休まずに弱音を吐くことなく舞台の稽古や収録に臨んだりする努力家である一方、若水の成功とは裏腹に村上の放送作家としての熱意の希薄さが目立った事や仕事が不調続きである事などに苛立ち、仕事の過度のストレスも重なって公開や番組収録を終えた後に楽屋で仲が良かった先輩役者の飯田蝶子や他の役者に村上の悪口を洗いざらい話したり、自宅で村上本人に対して不出来な点を頻繁に罵るなどして夫婦仲が悪化して破綻状態になっており既に別居生活を送っているなど、当時大スターだった喜劇役者若水ヤエ子の知られざる私生活や裏の顔の一面を面白おかしく詳細に書いている。なお、この別居中に若水は飯田に頻繁に悩み相談を持ちかけ、彼女のアドバイスで一応離婚は回避している。
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