昭和戦前期の論争
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1934年(昭和9年)頃になると、再び機関科問題が海軍上層部に取り上げられるようになった。同年11月には、参謀長会議が兵科・機関科双方の現場から意見聴取を行い、翌1935年(昭和10年)には、機関科を所管する軍務局第3課長の鈴木久武機関大佐らが独自に争点を整理した私案を作成した。 上記のような機運や、1935年夏に河村脩機関中佐が吉田善吾軍務局長に兵機一系化を直訴した事件、1936年(昭和11年)の二・二六事件捜査の際に機関学校卒業生内で流布していた機関科問題についての檄文が発見された事件などを踏まえ、同年11月、永野修身海相の下で海軍制度調査会(委員長:豊田副武軍務局長)が設置された。ただし、この海軍制度調査会も、大正13年改正時の教育制度調査会と同様に兵科士官中心に議論が進められ、兵機一系化は不相当とする結論を出した。永野海相は、この結論が不服で、井上成美少将に特命して追加的な研究を行わせた。井上は、在学期間を3カ月延ばせば兵学校と機関学校を統合した一系教育は可能であるとの答申をしたが、ただちに実行に移されることはなかった。 1937年(昭和12年)には、帝国議会でも、海軍政務次官経験者である牧山耕蔵代議士(立憲民政党)によって機関科問題が取り上げられるに至った。牧山が、機関科出身の大将が存在しない理由をただしたのに対し、米内光政海相は、過去に大将候補とされながら実現しなかった事例を挙げて、将来的に誕生を希望すると答弁するにとどまった。 その後、日米の軍事的緊張が高まった1941年(昭和16年)春に、豊田貞次郎海軍次官の主導で、軍務局第1課長の高田利種大佐を主任として機関科問題に関する制度改正研究が行われた。この際の高田案は、連合艦隊司令長官の山本五十六大将らにより、混乱を生じる制度改正は開戦可能性を考えると時期的に不適当であると反対され、実現しなかった。
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