機関科出身の大将
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/31 04:28 UTC 版)
1924年(大正13年)末の制度改正によって、制度上は消滅した兵科出身・機関科出身の将官の区別は、依然として続いた。機関科出身将官の事実上の最高ポストは海軍省軍需局長であり、機関科出身の中将が大将に親任された例は1945年(昭和20年)に帝国海軍が消滅するまでなかった。 その状況の中、軍需局長を経て、通常は兵科出身の中将が補職される海軍艦政本部長まで進んだ杉政人(海機10期)・上田宗重(海機13期)、太平洋戦争(大東亜戦争)中に軍需局長を経ずに艦政本部長となった渋谷隆太郎(海機18期)の3名が、機関科出身の大将の候補者と目された。艦政本部長を経験した中将は大将に親任されるのが例であった。しかし杉は艦政本部長在任中に起きた友鶴事件により引責辞任・軍令部出仕を経て予備役編入、上田は艦政本部長在職のまま急逝、渋谷は艦政本部長在職中に敗戦により海軍が廃止されたため、いずれも中将で終わった。 渋谷が艦政本部長を務めたのと同時期に海軍次官を務めた井上成美は、戦後になって、「海軍がもう少し続いていれば、渋谷は大将になれた」という趣旨の発言をしたという。渋谷(1940年(昭和15年)11月 中将、1945年(昭和20年)11月 予備役)は、井上(1939年(昭和14年)11月 中将、1945年(昭和20年)5月 大将、1945年(昭和20年)10月 予備役)より1年遅れで進級していた。太平洋戦争(大東亜戦争)中は、中将進級後、5年半経過して予備役に編入されない者は大将に親任される例であった。井上が言うように、海軍が「もう少し」続いていれば、渋谷は、井上に1年遅れて、1946年(昭和21年)の春に大将に親任されることが可能であった。 なお、敗戦によって帝国海軍が消滅した後、航空自衛隊に入隊した角田義隆(海機49期、帝国海軍での最終階級は海軍大尉)が、1974年(昭和49年)に航空幕僚長(空軍大将に相当)に就任した。陸上自衛隊、海上自衛隊を含めて海軍機関学校出身者が大将相当になった唯一の例である。
※この「機関科出身の大将」の解説は、「海軍機関科問題」の解説の一部です。
「機関科出身の大将」を含む「海軍機関科問題」の記事については、「海軍機関科問題」の概要を参照ください。
- 機関科出身の大将のページへのリンク