教育制度調査会と将官一系化
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「海軍機関科問題」の記事における「教育制度調査会と将官一系化」の解説
1923年(大正12年)、機関局長の船橋善弥機関中将が退任に際して機関科制度改正を上申したのを受け、財部彪海相は、同年7月に教育の兵機一系化を審議する海軍教育制度調査会(委員長:岡田啓介海軍次官)を設置した。岡田次官は調査会設置に反対だったが、財部海相に押し切られる形で審議が始まった。偶然にも同年9月の関東大震災で横須賀の海軍機関学校が焼失し、江田島の海軍兵学校と同居することになったため、機関学校教官を中心に教育一系化の要求が高まった。 1924年(大正13年)4月、教育制度調査会は、教育一系化につき両論併記の形の報告を提出した。この報告書は、調査会の一員の平塚保機関局長を退席させて、兵科士官だけで最終決定してしまったものだった。その後、元帥・軍事参議官・艦隊司令長官らによる諮問会議が開かれたが、具体案には踏み込まないまま、兵機一系化は教育の能率低下を招くとの結論になった。教育制度調査会は秘密会議だったが、平塚機関局長を除外して行われた審議過程が大阪毎日新聞によって報じられ、機関科士官たちを憤慨させた。 大正デモクラシーの世相の中、一部の機関科士官は、さらなる改革を求めて水平運動を意識した議論を展開した。しかし、大正デモクラシーに危機感をもつ海軍には受け入れられなかった。この外部組織と結びついた運動は、海軍に非常に有害な影響を与えたとする評価もある。 1924年5月に、村上格一海相が教育の兵機一系化について議論を禁止する訓示を発し、論争に終止符を打とうとした。反発した機関科士官の一部は、新聞各紙に意見を投稿して機関科問題について訴え、大臣訓示を批判した。そのため、同年6月には、加藤寛治第二艦隊司令長官も、「現状維持の結論は伏見宮博恭王大将や東郷平八郎元帥らの熟議を経て最善と判断されたのであるから、機関科士官は現在の制度を天分と心得るべき」旨の訓示を発して、事態の鎮静化を図った。 1924年末、帝国海軍は、前記の教育制度調査会の答申に基づき、将官のみに限って兵科士官と機関科士官の区分を撤廃し、階級名を「海軍大将・海軍中将・海軍少将」に一本化する制度改正を行い、海軍省機関局も廃止した。この大正13年改正により、制度上は、将官になれば機関科将校が全てのポストに就けることになり、機関科将校が兵科将校と同様に大将に親任されることが可能になったが、現実には、兵科出身将官と機関科出身将官が同等に扱われることはなかった。 「機関科出身の大将」を参照 なおも機関科士官側としては不満が収まらなかったが、前述の村上海相訓示により、以後約10年間に渡って表立った議論は封殺されることになった。教育課程は兵機二系統に据え置かれ、機関学校は舞鶴に再建された。兵学校に比べて機関学校への入学希望者が不足する問題は、機関学校の入試を兵学校より先行させ、合格者は兵学校の受験資格を失わせる手法により生徒の確保を図ることになったが、事情を十分知らないまま機関学校を受験した者からは不満が出た。
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