教育勅語と徳目主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/11 21:10 UTC 版)
教育勅語が出される以前から「修身科」は存在していたが、欧化主義と国粋主義の間で道徳教育は揺れ動いており、方針は一定していなかった。こうした混乱状態は、1890年(明治23年)10月30日に「教育ニ関スル勅語」が渙発されたことで収束した。 翌1891年(明治24年)12月には「小学校修身教科用図書検定標準」が発表され、これに基づいて3年間におよそ80種類もの修身教科書が発行された。 これらの構成はすべて、最初に徳目を掲げ(徳目主義)、次にその徳目を具体的に理解させるための例話や寓話が置かれる(人物主義)というものであった。 1903年(明治36年)4月の小学校令改正により、教科書の国定化が行われ、強調点の変更は見られたものの、構成に関しては変更されず、第二次世界大戦の終結まで徳目主義の系譜は維持された。
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