教育勅語への関与
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明治23年10月30日に発表された教育勅語は、第1次山縣内閣の下で起草された。その直接の契機は、山縣有朋内閣総理大臣の影響下にある地方長官会議が、同年2月26日に「徳育涵養の義に付建議」を決議し、知識の伝授に偏る従来の学校教育を修正して、道徳心の育成も重視するように求めたことによる。また、明治天皇が以前から道徳教育に大きな関心を寄せていたこともあり、榎本武揚文部大臣に対して道徳教育の基本方針を立てるよう命じた。ところが、榎本はこれを推進しなかったため5月に更迭され、後任の文部大臣として山縣は腹心の芳川顕正を推薦した。これに対して明治天皇は難色を示したが、山縣が自ら芳川を指導することを条件に天皇を説得、了承させた。文部大臣に就任した芳川は、女子高等師範学校学長の中村正直に、道徳教育に関する勅語の原案を起草させた。 この中村原案について、山縣が法制局長官の井上に示して意見を求めた所、井上は中村原案の宗教色・哲学色を理由に猛反対した。山縣は政府の知恵袋とされていた井上の意見を重んじ、中村に代えて井上に起草を依頼した。井上は6月20日付の山縣宛の手紙で中村原案を破棄し、7ヵ条に亘る教育勅語制定の問題点を挙げ、「立憲主義に従えば君主は国民の良心の自由に干渉しない」「宗教、哲学、政治、学問とは関わりない中立的な内容で記す」ことを前提として、宗教色など世俗性を排することを企図して原案を作成した。井上は自身の原案を提出した後、一度は教育勅語構想そのものに反対して25日に山縣に中止を進言したが、山縣の制定の意思が変わらないことを知り、自ら教育勅語起草に関わるようになった。この井上原案の段階で、後の教育勅語の内容はほぼ固まっている。 一方、天皇側近の儒学者である元田永孚は、以前から儒教に基づく道徳教育の必要性を明治天皇に進言しており、明治12年(1879年)には儒教色の色濃い教学聖旨を起草して、政府幹部に勅語の形で示していた。元田は、新たに道徳教育に関する勅語を起草するに際しても、儒教に基づく独自の案を作成していたが、井上原案に接するとこれに同調した。元田は熊本藩の藩校時習館の同窓(先輩)である。井上は元田に相談しながら語句や構成を練り、最終案を完成した。 10月30日に発表された「教育ニ関スル勅語」は、国務に関わる法令・文書ではなく、天皇自身の言葉として扱われたため、天皇自身の署名だけが記され、国務大臣の署名は副署されなかった。井上は明治天皇が直接下賜する形式を主張したが容れられず、文部大臣を介して下賜する形がとられた。
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