改宗についての諸見解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 03:14 UTC 版)
「コンスタンティヌス1世」の記事における「改宗についての諸見解」の解説
当時キリスト教はローマ帝国の領内に強固に根付きつつあったが、キリスト教徒ローマ皇帝の登場、すなわち、コンスタンティヌス1世の改宗はその当然の帰結であったわけではない。コンスタンティヌス1世の改宗の時点で、ローマ帝国内のキリスト教徒比率は多く見積もっても10パーセント程度でしかなかったと見られているし、またジョーンズによれば、キリスト教徒は都市部に偏在しており、主要な支持基盤は下層・中産階級を構成する手工業者や書記。小売商、商人、下級都市参事会員などであったという。 コンスタンティヌス1世の改宗が312年、またはその頃に行われたということについては一般的に受け入れられている。しかし、コンスタンティヌス1世のキリスト教への改宗がこの時に行われたのか完全に断言できるわけではなく、その動機、つまりは有効利用可能な組織を動員するための政治的動機から来る形式に過ぎないものであったのか、宗教的な真剣さを持ったものだったのか、といったことについてもはっきりわかることは何もない。また、少なくとも彼は当初は自分の宗教的姿勢に曖昧さを維持し続け、公的な文章においてはキリスト教徒もその他の宗教者も都合よく解釈可能な表現を用いることを常としていた。 はっきりしていることは。キリスト教が当時既に取るに足らないほど小さな宗教ではなく、ローマの知的階級の考察の対象になるほどには大きく、関心を持たれる思想となっていたことである。また、現代の歴史家の中にはヴェーヌのように、当時のキリスト教が異教に対して精神性・哲学・倫理などの面で優越性を備えていたと考える人物もいる。しかし一方で、前述の通りその数は多数派と呼ぶには程遠く、信者の多くは中産階級以下の人々であり政治的・社会的に無力であった。上流階級たる元老院身分、騎士身分、都市参事会員層の信徒は極めて少数であり、元老院身分におけるキリスト教の勢力は3世紀後半ですらほとんど皆無であったし、とりわけ軍隊はその大半が非キリスト教徒であり、属州の前線に近い都市を含めて東方由来の密儀宗教、ミトラス教が流行していた。コンスタンティヌス1世が最後まで配慮を続けた異教の神、不敗太陽神(ソル)はミトラス(ミトラ)の神性を表す称号の1つである。また、コンスタンティヌス1世は312年以前から明確にキリスト教に対して好意的であったが、一方でこの時期に彼がキリスト教徒であったと証言する古代の著作家は存在せず、コンスタンティヌス1世に向けて歓呼の声をあげる人々は、彼をユピテルを始めとしたローマの神々に擬することを躊躇していない。 もう一つ、コンスタンティヌス1世のキリスト教信仰を巡って重要な出来事として、313年にはビテュニア総督宛にキリスト教の信仰の自由を承認することを通知し、没収されたキリスト教会の財産を返還するよう命じる法令(書簡)が送付されている。これは現在では『ミラノ勅令』と呼ばれ、一般にローマ帝国におけるキリスト教の公認という出来事として語られる。ただし、正確に表現するならばこれは勅令ではなく、また、コンスタンティヌス1世が発したという説明も正しくない。これはコンスタンティヌス1世とリキニウスが同盟者であった時期に、リキニウスが両皇帝の連名で帝国の東部に対して発した書簡であった。また、重要なこととして、この書簡は特にキリスト教徒を特記してはいるものの、厳密には「キリスト教の信仰を公認した」のではなく、神格に対する畏敬を保証するために、「キリスト者にも万人に対しても、各人が欲した宗教に従う自由な権利を与える」と宣言するものであった。 改宗を巡っては古代の歴史家たちの記録、例えば、異教徒ゾシモスとキリスト教徒エウセビオスの記録はそれぞれに矛盾があり、これらが政治的動機と宗教的動機についての近現代の学者たちの様々な見解の元となった。 ヤーコプ・ブルクハルトは「野心と権勢欲が一刻の平穏の時も与えないような天才的人間においては、キリスト教と異教、意識的信仰と不信仰ということは全然問題になりえない。このような人間はじつにその本質において無宗教なのである」と述べ、コンスタンティヌス1世のキリスト教に対する姿勢の政治的動機を強調する。他方、ジョーンズはコンスタンティヌス1世が当時キリスト教が保持していた政治力の乏しさから「キリスト教徒の好意など得る価値はほとんどなく、そしてそれを得たければ、単に彼らに寛容であることによってえられたはずである」と評し、ヴェーヌはコンスタンティヌス1世がキリスト教という前衛的な新しい宗教に惹かれ、また君主の宗教として「豪奢を誇示」するのに相応しいと感じたことは充分あり得ることとしている。そして「コンスタンティヌスをただ計算高い政治家としか見ない歴史家はさして深く事態を見きわめられないだろう」と述べ、社会的・経済的な要素を重視する現代的観点から判断すべきではないとする。 いずれにせよ重要な事実は、コンスタンティヌス1世の改宗以降、ほとんど全てのローマ皇帝がキリスト教徒であったことであり、コンスタンティヌス1世のキリスト教改宗は歴史上最も重大な事件の1つであった。ヴェーヌは「もしコンスタンティヌスがいなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう」と評する。
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