批判期
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今でこそ『純理』は近代哲学の基礎と目されることも多いが、この書物がすぐに哲学界を驚愕させ、思考の地平を一変させたと考えることはできない。『純理』はすぐに上梓されたが、反響はほとんどなく、売上も芳しくなかった。同時代の哲学者ハーマンやメンデルスゾーンにはもっぱら不評だったと言われている。そのうえ、1782年に雑誌『ゲッティンゲン学報付録』に出た匿名書評ではカントの思想がバークリの観念論と同一視されてしまっていた。そのためカントは翌1783年に出版した『プロレゴーメナ』や『純理』第2版「観念論反駁」の中で、こうした嫌疑をはらさざるをえなかった。同時代人の第一印象では、カントはバークリやヒュームと同様の懐疑論者とみなされたのである。 批判哲学のプロジェクトは『純理』以降、自然学・実践哲学(道徳論・法論)・美学・歴史哲学・宗教へと多岐にわたって展開される。とりわけ『純理』と『実践理性批判』(1788)、『判断力批判』(1790)を合わせた三つの書物は、慣例として「三批判書」と総称され、それぞれ『第一批判』、『第二批判』、『第三批判』と称されることもある。自然学分野は『自然科学の形而上学的原理』(1786)や『判断力批判』第二部の中で展開され、実践哲学は『人倫の形而上学の基礎づけ』(1785)や『実践理性批判』(1788)、『人倫の形而上学』(1797)が主著となっている。美学については、同時代のバウムガルテンの影響を受けつつ大きく議論を展開させた『判断力批判』第一部が読まれなければならない。 批判期以降、カントは様々な論争に巻き込まれ、また自ら論争に介入していった。特に論争の場として重要だったのは、1783年にゲディケとビースターによって創刊された雑誌『ベルリン月報』である。カントは十数本の論文を『ベルリン月報』に掲載しているが、そのなかには「敢えて賢かれ、自らの悟性を用いる勇気を持て」という言葉が有名な小論「啓蒙とはなにか」(1784)も含まれている。この問いかけもまた、論争の産物だと言ってよい。同時期のプロイセンではフリードリヒ大王のもと、「啓蒙」の有用性とその限界が議論されていたからである。また、1785年にはヘルダーの『人類史の哲学の理念』(1784-91)をめぐって、カントはヘルダーと論争を繰り広げている。他にも、スピノザ主義をめぐってレッシングやヤコービ、メンデルスゾーンらが繰り広げた汎神論論争に加わってもいる(「思考の方向を定めるとはどういうことか」(1786))。 1786年、カントは3月にケーニヒスベルク大学総長に就任した。同年8月にはフリードリヒ大王が崩御し、代わってフリードリヒ・ヴィルヘルム二世が即位する。前代が啓蒙君主と呼ばれるほどフランス啓蒙哲学に通じ、自らの宮殿にヴォルテールやラ・メトリを呼び寄せたほどだったのに対し、この新しい君主は守旧的であり、宗教神秘主義にも傾倒していた。1788年には宗教・文教行政を担っていた法務大臣ヴェルナーが宗教検閲を発布し、1792年にはカントが『ベルリン月報』に発表した「人間の本性における根源悪について」が検閲に引っかかってしまった。この論文は検閲を通過したものの、次の「人間の支配をめぐる善現理と悪原理の戦いについて」は出版不許可の決定を受けた。両論文は1793年には『単なる理性の限界内における宗教』として発表されるが、1794年にはカントの宗教論が有害だという勅令が出され、カントは宗教・神学に関する講述を禁じられてしまう。 カントはこうした検閲や勅令に粛々と従っていたが、他方で1789年に勃発したフランス革命については、それがジャコバン独裁を経て過激化していった時代にもなおそれを称賛していた。国際政治情勢が激動する時代にあって、カントはそれに呼応するかのように、「理論では正しいかもしれないが実践の役には立たないという俗言について」(1793)や『永遠平和のために』(1795)、『人倫の形而上学』「第一部・法論の形而上学的定礎」などで共和制と国際連合について論じた。 カントは晩年、身体の衰弱に加えて思考力の衰えを感じつつも、自然科学の形而上学的原理から物理学への移行という課題に取り組みつづけた。この課題は完成されなかったが、一連の草稿は『オプス・ポストゥムム』として知られている。今で言う老年性認知症が進行する中、1804年2月12日にカントは逝去した。最後の言葉は、ワインを水で薄め砂糖を混ぜたものを口にしたときに発したという「これでよい(Es ist Gut)」であったと伝えられている。2月28日、大学墓地に埋葬される。カントは簡素な葬儀を望んだが、葬儀は二週間以上にわたって続き、多くの参列者が死を悼んだ。
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