忍城の戦いとは? わかりやすく解説

忍城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 03:39 UTC 版)

成田長親」の記事における「忍城の戦い」の解説

詳細は「忍城の戦い」を参照 天正18年1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、当主氏長北条氏味方して小田原城籠城したが、成田氏本拠忍城は長親の父・泰季が城代務め500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人が立て籠もった。秀吉武蔵国岩付城落城すると、同城の攻撃軍を率いた浅野長政木村重茲両名に対して上杉景勝前田利家北国と共に早急に鉢形城攻囲するように命じた一方秀吉忍城攻め大将石田三成任じると、佐竹義宣宇都宮国綱結城晴朝多賀谷重経水谷勝俊佐野房綱北関東諸将をはじめ2万余人軍勢率いて侵攻した。 これに対し成田方は『成田系図によれば本丸に泰季、持田口に長親と新田常陸守下忍口に本庄越前守皿尾口に成田土佐田山又十郎行田口に松岡豊前山田河内守酒巻靱負遊軍配置、『忍城戦記によれば長野口に吉田和泉守柴崎和泉守佐間口に正木丹波守、下忍口に酒巻靱負行田口に島田出羽守らを配置するなどして城の防備固めた。『成田記』によれば6月7日城代の泰季が急死したため、奥方太田資正の娘)は甲斐姫相談の上一門家臣集め、長親を総大将とすることを命じた記されている。 一方秀吉三成に対して忍城水攻めのための様々な施策指示しており、6月13日7月14日付け三成から浅野木村両名宛てた書状には秀吉から「忍の城の儀、御手をもって大方相済ますについて、先手の者引き取るべきの由、仰せを蒙り候」と指示があったと記されている。三成築いた堤は石田堤呼ばれ全長14キロメートルとも28キロメートルとも言われる。『成田系図によれば、長親らの計略により慣れた者を深夜に城の外に出し郭外の堤を断ち切る敵陣注いだ逆行して敵陣が漂溺したが、城中小勢故に城を出て敵を撃つことはかなわず記されている。 6月下旬秀吉の命により鉢形城攻略終えた浅野長政軍勢援軍として差し向けられると、7月1日7月31日)に皿尾口を突破し城兵の首を30余りほど討ち取る戦功をあげたが、秀吉長政戦功賞しつつも、あくまでも水攻めを行う旨を伝えた7月6日8月5日)、小田原城落城後も抵抗続け忍城対し秀吉木村重茲上杉景勝山崎堅家に対して忍城攻めに参陣するように命じと共に、堤をより頑強に修築するように命じた一方寄せ手の側も多数負傷者出していたが、『成田系図によれば酒巻靱負計略よるもの、『忍城戦記によれば正木丹波守らの加勢よるもの記している。 『成田系図によれば忍城抵抗が続く中、当主氏長籠城軍説得するため家臣松岡石見守秀吉家臣神谷備後守派遣した。長親らは、三成長政攻城側からの「退城の際に運び出せ荷物一人つき馬一頭分」という条件反発し籠城継続する構え見せたが、秀吉仲裁により開城決意した記されている。

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忍城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 22:45 UTC 版)

小田原征伐」の記事における「忍城の戦い」の解説

忍城 忍城位置 「忍城の戦い」も参照 天正18年1590年6月5日から7月17日まで続いた忍城攻撃軍の編成 2 - 5万人石田三成 1,500人 大谷吉継 長束正家 鈴木重朝 北条氏勝 関東諸侯佐竹義宣 宇都宮国綱 多賀谷重経 水谷勝俊 結城晴朝 佐野房綱 大田原晴清 増援浅野長政 直江兼続 3,000真田昌幸真田信幸信繁 3,000忍城守備軍(成田氏長配下500余の兵と城下の民合計3,000人(成田泰季成田長親 - 羽生城善照寺向用斎 本庄泰展 甲斐姫 豊島頼重豊島信満の父) 石田三成長束正家らは館林城攻略したのち軍を返し6月4日頃から忍城取り掛かった忍城成田氏当主成田氏長と弟の泰親が小田原城籠城したため、城は一族などの留守部隊近隣領民だけの寡兵となっていた。当初籠城軍の主は氏長叔父成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮執ることとなった当初6月8日頃に前田利家上杉景勝真田昌幸北国勢と、浅野長政木村重茲徳川勢からなる浅野隊が合流し、彼ら主導忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍攻めあぐねた秀吉からは利根川利用した水攻め指示があったが、石田三成秀吉対し、もっと積極的な攻勢をかけるべきではという伺い行った。しかし6月12日秀吉からの返信では、三成対し改め水攻め注意点事細かに指示している。翌13日北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻め向かった攻め手石田三成大将長束正家副将として佐竹義重宇都宮国綱結城晴朝北条氏勝多賀谷重経水谷勝俊佐野房綱などの常陸下野下総上野諸将先鋒に、本陣忍城一望する近く丸墓山古墳埼玉古墳群)に置いて忍城包囲し利根川から忍城付近までの長大貯水堤(石田堤)の築堤進められた。 しかし予想反して利根川水量貧弱であり、水攻め効果薄かったその後増水により水攻め光明見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊し豊臣方溺死者が出た結果として周辺は大湿地帯となり人馬行動困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻め7月入っても続くことになる。鉢形城落とした浅野長政真田昌幸信繁親子らが増援となり攻撃続いたが、秀吉力攻めではなく水攻め続けるように指示したその後再三攻撃凌いだ忍城落城しないまま、小田原城先に開城してしまった。小田原降伏した氏長説得により、忍城開城した。城の接収には浅野長政らが務めこの際浅野指揮下に、秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。

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