忍城の戦い
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詳細は「忍城の戦い」を参照 天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、当主の氏長は北条氏に味方して小田原城に籠城したが、成田氏の本拠・忍城は長親の父・泰季が城代を務め、500余の兵と城下の民たち合わせて3,000人が立て籠もった。秀吉は武蔵国の岩付城が落城すると、同城の攻撃軍を率いた浅野長政と木村重茲の両名に対して上杉景勝と前田利家ら北国勢と共に早急に鉢形城を攻囲するように命じた。一方、秀吉は忍城攻めの大将に石田三成を任じると、佐竹義宣、宇都宮国綱、結城晴朝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱ら北関東の諸将をはじめ2万余人の軍勢を率いて侵攻した。 これに対し成田方は『成田系図』によれば本丸に泰季、持田口に長親と新田常陸守、下忍口に本庄越前守、皿尾口に成田土佐と田山又十郎、行田口に松岡豊前と山田河内守、酒巻靱負を遊軍に配置、『忍城戦記』によれば長野口に吉田和泉守と柴崎和泉守、佐間口に正木丹波守、下忍口に酒巻靱負、行田口に島田出羽守らを配置するなどして城の防備を固めた。『成田記』によれば6月7日に城代の泰季が急死したため、奥方(太田資正の娘)は甲斐姫と相談の上、一門と家臣を集め、長親を総大将とすることを命じたと記されている。 一方、秀吉は三成に対して忍城水攻めのための様々な施策を指示しており、6月13日(7月14日)付けの三成から浅野、木村の両名に宛てた書状には秀吉から「忍の城の儀、御手筋をもって大方相済ますについて、先手の者引き取るべきの由、仰せを蒙り候」と指示があったと記されている。三成の築いた堤は石田堤と呼ばれ、全長14キロメートルとも28キロメートルとも言われる。『成田系図』によれば、長親らの計略により水に慣れた者を深夜に城の外に出し、郭外の堤を断ち切ると水を敵陣に注いだ。水は逆行して敵陣が漂溺したが、城中は小勢故に城を出て敵を撃つことはかなわずと記されている。 6月下旬、秀吉の命により鉢形城攻略を終えた浅野長政の軍勢が援軍として差し向けられると、7月1日(7月31日)に皿尾口を突破し城兵の首を30余りほど討ち取る戦功をあげたが、秀吉は長政の戦功を賞しつつも、あくまでも水攻めを行う旨を伝えた。7月6日(8月5日)、小田原城の落城後も抵抗を続ける忍城に対し、秀吉は木村重茲、上杉景勝、山崎堅家に対して忍城攻めに参陣するように命じると共に、堤をより頑強に修築するように命じた。一方、寄せ手の側も多数の負傷者を出していたが、『成田系図』によれば酒巻靱負の計略によるもの、『忍城戦記』によれば正木丹波守らの加勢によるものと記している。 『成田系図』によれば忍城の抵抗が続く中、当主の氏長は籠城軍を説得するため家臣の松岡石見守、秀吉の家臣・神谷備後守を派遣した。長親らは、三成や長政ら攻城側からの「退城の際に運び出せる荷物は一人につき馬一頭分」という条件に反発し、籠城を継続する構えを見せたが、秀吉の仲裁により開城を決意したと記されている。
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忍城の戦い
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忍城 忍城の位置 「忍城の戦い」も参照 天正18年(1590年)6月5日から7月17日まで続いた。 忍城攻撃軍の編成 2 - 5万人石田三成 1,500人 大谷吉継 長束正家 鈴木重朝 北条氏勝 関東諸侯佐竹義宣 宇都宮国綱 多賀谷重経 水谷勝俊 結城晴朝 佐野房綱 大田原晴清 増援浅野長政 直江兼続 3,000人 真田昌幸・真田信幸・信繁 3,000人 忍城守備軍(成田氏長の配下) 500余の兵と城下の民合計3,000人(成田泰季) 成田長親 - 羽生城主 善照寺向用斎 本庄泰展 甲斐姫 豊島頼重(豊島信満の父) 石田三成・長束正家らは館林城を攻略したのち軍を返し、6月4日頃から忍城に取り掛かった。 忍城の成田氏当主の成田氏長と弟の泰親が小田原城に籠城したため、城は一族などの留守部隊と近隣の領民だけの寡兵となっていた。当初の籠城軍の主は氏長の叔父の成田泰季であったが、籠城戦の始まる直前に死去したため、一族郎党相談の上で泰季の子の長親が指揮を執ることとなった。 当初は6月8日頃に前田利家・上杉景勝・真田昌幸ら北国勢と、浅野長政や木村重茲・徳川勢からなる浅野隊が合流し、彼ら主導で忍城攻撃が行われたが、忍城は沼や河川を堀として効果的に利用した堅城であり、豊臣軍は攻めあぐねた。秀吉からは利根川を利用した水攻めの指示があったが、石田三成は秀吉に対し、もっと積極的な攻勢をかけるべきではという伺いを行った。しかし6月12日の秀吉からの返信では、三成に対し改めて水攻めの注意点を事細かに指示している。翌13日、北国勢と浅野隊は離脱し鉢形城攻めに向かった。攻め手は石田三成を大将、長束正家を副将として佐竹義重や宇都宮国綱、結城晴朝、北条氏勝、多賀谷重経、水谷勝俊、佐野房綱などの常陸、下野、下総、上野の諸将を先鋒に、本陣を忍城を一望する近くの丸墓山古墳(埼玉古墳群)に置いて忍城を包囲し、利根川から忍城付近までの長大な貯水堤(石田堤)の築堤が進められた。 しかし予想に反して利根川の水量が貧弱であり、水攻めの効果は薄かった。その後の増水により水攻めに光明が見えたが、城方が堤を一部破壊し、そこから決壊して豊臣方に溺死者が出た。結果として城周辺は大湿地帯となり人馬の行動が困難になり、すなわち力攻めも困難となり、忍城攻めは7月に入っても続くことになる。鉢形城を落とした浅野長政や真田昌幸・信繁親子らが増援となり攻撃は続いたが、秀吉は力攻めではなく水攻めを続けるように指示した。その後の再三の攻撃も凌いだ忍城は落城しないまま、小田原城が先に開城してしまった。小田原で降伏した氏長の説得により、忍城は開城した。城の接収には浅野長政らが務め、この際の浅野指揮下に、秀吉軍に臣従した大田原晴清がいる。
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