忍城退出後の動静
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/26 03:39 UTC 版)
忍城の開城後、氏長は領地を没収され蒲生氏郷の下に身柄が預けられることになり、氏郷が奥州仕置によって陸奥国会津に移封されると、これに従った。氏郷の下、天正19年(1591年)の九戸政実の乱に参陣するなど着実に功績を挙げた氏長は下野国烏山城2万石を与えられ、ふたたび大名となった。こうした中、成田氏の家臣団は氏長に同行し烏山藩士となる者、氏長と袂を分かち忍城の新領主となった松平忠吉の家臣となる者、在地に留まり帰農する者などに別れた。忠吉の家臣となった者の中には、長親の長男・長季や、忍城の戦いに参加した田山又十郎も含まれている。 『成田系図』によれば京都に上洛した氏長は浅野長政と石田三成に会い、「忍城の戦いの際、成田氏と同姓の持田口の者と密かに内通したが、故あって謀略は行われなかった」という話を聞いた。氏長は成田近江守の逆心を知らず、長親に疑いの目を向けた。これを知った長親は烏山を去り流浪の身となった。氏長は後に近江守の逆心を知ると大いに後悔し、長親に書状を送り陳謝したが、長親はこれに従わなかったと記している。一方、『断家譜』には「小田原落城後浪人」とのみ記されている。
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