酒巻靱負
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/04 06:09 UTC 版)
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不詳 |
死没 | 不詳 |
別名 | 酒巻靱負助、酒巻靱負之助詮稠、酒巻靱負、酒巻靱負之助、酒巻靱負允 |
主君 | 成田氏長 |
氏族 | 酒巻氏 |
兄弟 | 酒巻右衛門次郎 |
酒巻 靱負(さかまき ゆきえ)は、戦国時代の武将。忍城城主である成田氏長の家臣。靱負は官職名。
経歴・人物
元々は金田という姓を名乗っていた。成田親泰の代に成田氏に従ったとされる。忍城の戦いでは、下忍口を手島采女以下600人余で守った。忍城開城後は深谷城へ赴き、忍城戦の報告をした。開城後に会津へ向かった主君氏長には同行しなかった。戦いの後、現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着したとされる[1]。
脚注
- ^ 『行田市譚』[要ページ番号]
酒巻靱負
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 13:55 UTC 版)
靱負(ゆきえ)は官職名。この戦いの後、現在の埼玉県羽生市上手子林(かみてこばやし)に土着したとされる。子孫は現存しており、酒巻家に伝わる『酒巻家系図』には靱負とその弟の系譜が掲載されている。しかし『酒巻家系図』にも正確な諱は残っておらず、詮稠・靱負・靱負之助・靱負允など様々な名が伝わっている。
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