小幡北山埴輪製作遺跡とは? わかりやすく解説

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小幡北山埴輪製作遺跡

名称: 小幡北山埴輪製作遺跡
ふりがな こはたきたやまはにわせいさくいせき
種別 史跡
種別2:
都道府県 茨城県
市区町村 東茨城郡茨城町
管理団体
指定年月日 1992.01.21(平成4.01.21)
指定基準 史6
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 茨城県中央部東流する涸沼川は、下流涸沼形成し那珂川河口付近合流して太平洋に注ぐ。小幡北遺跡は、この涸沼川南岸台地上に所在するわが国最大埴輪製作遺跡である。遺跡涸沼川支流開析した浸蝕谷最奥部位置し東西分岐した幅五~一〇メートルの小支谷沿いに展開する付近はカベット(壁土)山と呼ばれるように古くから良質粘土産出する地域として知られ台地縁の各所には豊富な湧水存在するなど、窯業生産適した自然環境にある。
 遺跡の発見昭和二十八年遡り入植者開墾伴って多量埴輪出土したことにより、研究者の知るところとなったその後本格的な調査がなされぬまま、埴輪出土した東側支谷を中心に埴輪窯の存在推定されてきたが、昭和六十二年には西側支谷からも新たな窯跡発見され遺跡予想以上に広範囲に及ぶことが明らかになった。このため急遽同年から翌年にかけて、三次にわたる遺跡範囲確認調査実施され、約八ヘクタールに及ぶ遺跡全容解明された。
 発見され遺構は、埴輪窯五九基、工房跡八棟、粘土採掘坑二か所などであるが、その大半部分的な確認にとどまる。
 窯跡は谷に面した高さ六メートル前後台地斜面構築され東西の支谷沿いに五群に分かれて分布する東方支谷側には台地西斜面中心に二八基の窯跡があり、約八〇メートル離れて南北二群が存在する。北群二一基、南群七基からなるが、窯跡はいずれも二~七メートル間隔整然と並び相互重複認められない西方支谷側には台地斜面中心に二九基の窯跡東西二群に分かれて分布する。東群は一八基が一部重複しながら東西隣接して並び、約一八メートル離れた西群は数基を単位として斜面の上下に一一基が分布するまた、後世造成により大きく地形改変され東側支谷の最奥部からも、削平を免れた二基の窯底部発見されており、削平部にも一群窯跡群想定できる。これらの窯跡の築窯の先後関係や群相互の関係は、窯体を未調査のため明確ではない。窯の構造は、一部調査例によると、基盤層の砂質ロームを一メートルほど掘り込んだ半地下式無段の窖窯で、窯体の長さが六メートル前後焼成部の幅一・二メートル狭長な形態基本とするようである。
 台地上から発見された八棟の竪穴遺構は、竪穴住居似た構造を持つが、この時期住居通有の竈が付設されず、床面原料粘土集積見られることから、埴輪製作に関わる工房考えられる。また台地斜面検出され粘土採掘坑は、周辺分布する灰白色良質粘土採取する目的掘られ大小土坑複雑に重複したのであるこの他に、台地上を直線的に走る四条の溝が発見されているが、その時期や性格判然としない
 窯跡中心に出土した埴輪は、円筒埴輪朝顔形埴輪基本に、各種形象埴輪がある。形象埴輪には武人像や堅笛を吹く人物像、襷をかけた人物像、壷をもつ人物像のほかに、馬形埴輪盾形埴輪などあり、多彩な内容をもつ。これらの埴輪は、県内各地から出土する埴輪造形的には共通した特徴をもち、また製作技法類似するなど、常陸型とも呼ぶべき特徴をもっている。出土した埴輪胎土分析結果埴輪供給先一部判明し周辺所在する古墳をはじめ、一五キロメートルほど離れた霞ヶ浦北岸舟塚古墳にまで供給されたことが明らかになっている。
 以上のように小幡北山埴輪製作遺跡は、これまで発見されている埴輪製作遺跡最大規模をもつ遺跡で、埴輪生産関わる一連の施設備えている点に高い価値がある遺跡操業時期は六世紀後半中心に七世紀に及ぶものと推定され古墳時代後期における埴輪生産実態政治勢力支配領域経済圏究明する上で欠くことのできぬ遺跡考えられる。よってこれを史跡指定し、その保存図ろうとするものである
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小幡北山埴輪製作遺跡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/11 14:20 UTC 版)

小幡北山埴輪製作遺跡
小幡北山
埴輪製作
遺跡
位置

小幡北山埴輪製作遺跡(おばたきたやまはにわせいさくいせき)は、茨城県茨城町にある古墳時代の遺跡。日本最大の埴輪製作遺跡であり、1992年(平成4年)1月21日に国史跡に指定された。

概要

茨城県の中央部を東流する涸沼川は、下流に涸沼を形成し、那珂川の河口付近に合流して太平洋に注ぐ。小幡北山遺跡は、この涸沼川の南岸台地上に所在する日本最大の埴輪製作遺跡である[1]。遺跡は涸沼川の支流が開析した浸蝕谷の最奥部に位置し、東西に分岐した幅5~10メートルの小支谷沿いに展開する。付近はカベット(壁土)山と呼ばれるように古くから良質粘土を産出する地域として知られ、台地縁の各所には豊富な湧水が存在するなど、窯業生産に適した自然環境にある[1]

遺跡の発見は1953年(昭和28年)に遡り、入植者の開墾に伴って多量の埴輪が出土したことにより、研究者の知るところとなった[1]。その後本格的な調査がなされぬまま、埴輪を出土した東側支谷を中心に埴輪窯の存在が推定されてきたが、1987年(昭和62年)には西側支谷からも新たな窯跡が発見され、遺跡が予想以上に広範囲に及ぶことが明らかになった。このため急遽同年から翌年にかけて、三次にわたる遺跡の範囲確認調査が実施され、約8ヘクタールに及ぶ遺跡の全容が解明された。発見された遺構は、埴輪窯59基、工房跡8棟、粘土採掘坑2か所などであるが、その大半が部分的な確認にとどまる[1]

窯跡は谷に面した高さ6メートル前後の台地斜面に構築され、東西の支谷沿いに5群に分かれて分布する。東方支谷側には台地西斜面を中心に28基の窯跡があり、約80メートル離れて南北2群が存在する。北群21基、南群7基からなるが、窯跡はいずれも2~7メートルの間隔で整然と並び、相互の重複は認められない[1]。西方支谷側には台地南斜面を中心に29基の窯跡が東西2群に分かれて分布する。東群は18基が一部重複しながら東西に隣接して並び、約18メートル離れた西群は数基を単位として斜面の上下に11基が分布する[1]。また、後世の造成により大きく地形が改変された東側支谷の最奥部からも、削平を免れた二基の窯底部が発見されており、削平部にも一群の窯跡群を想定できる。これらの窯跡の築窯の先後関係や群相互の関係は、窯体を未調査のため明確ではない。窯の構造は、一部の調査例によると、基盤層の砂質ロームを1メートルほど掘り込んだ半地下式無段の窖窯で、窯体の長さが6メートル前後、焼成部の幅1.2メートルの狭長な形態を基本とするようである[1]

台地上で検出された8棟の竪穴建物は、この時期の住居として使用された竪穴建物に通有のカマドが付設されず、床面に原料粘土の集積が見られることから、埴輪製作に関わる工房と考えられる。また台地斜面で検出された粘土採掘坑は、周辺に分布する灰白色の良質粘土を採取する目的で掘られた大小の土坑が複雑に重複したものである。この他に、台地上を直線的に走る四条の溝が発見されているが、その時期や性格は判然としない[1]

窯跡を中心に出土した埴輪は、円筒埴輪と朝顔形埴輪を基本に、各種の形象埴輪がある。形象埴輪には武人像や堅笛を吹く人物像、襷をかけた人物像、壷をもつ人物像のほかに、馬形埴輪や盾形埴輪などあり、多彩な内容をもつ。これらの埴輪は、県内各地から出土する埴輪と造形的には共通した特徴をもち、また製作技法も類似するなど、常陸型とも呼ぶべき特徴をもっている。出土した埴輪の胎土分析の結果、埴輪の供給先の一部が判明し、周辺に所在する古墳をはじめ、15キロメートルほど離れた霞ヶ浦北岸の舟塚古墳にまで供給されたことが明らかになっている[1]

以上のように小幡北山埴輪製作遺跡は、これまで発見されている埴輪製作遺跡中最大の規模をもつ遺跡で、埴輪生産に関わる一連の施設を備えている点に高い価値がある。遺跡の操業時期は6世紀後半を中心に7世紀に及ぶものと推定され、古墳時代後期における埴輪生産の実態や政治勢力の支配領域、経済圏を究明する上で欠くことのできぬ遺跡と考えられる[1]。そのため、国史跡に指定された[2]

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 国指定文化財等データベース”. kunishitei.bunka.go.jp. 文化庁. 2021年1月9日閲覧。
  2. ^ 小幡北山埴輪製作遺跡 文化遺産オンライン”. bunka.nii.ac.jp. 2021年1月9日閲覧。

座標: 北緯36度16分33秒 東経140度24分26秒 / 北緯36.27583度 東経140.40722度 / 36.27583; 140.40722



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