太宰治との出会い
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洗足の実家に帰ったとき、太宰の愛読者である弟通の勧めで太宰の『虚構の彷徨』を読む。1941年(昭和16年)、長女の死にまつわる日記風告白文を太宰に送ったところ、思いがけず「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい」という返事が届く。同年9月、2人の女子大生と共に東京三鷹の太宰宅を訪問。12月15日、太宰から電報で呼び出される。既婚者の太宰と恋に落ちる。 太宰との関係が深まるにつれて太宰夫人・美知子から疑惑の目を向けられるようになったため、太宰の窮余の一策として、太宰の門人・堤重久との逢引を世話されたこともあるが、静子は「結婚を考えない男の方とおつきあいしたくない」と拒絶した。 1943年(昭和18年)秋、家主の加来金升の親友であった叔父悌二の紹介で神奈川県足柄下郡下曾我村の山荘「大雄山荘」に疎開。 1944年(昭和19年)1月10日から13日まで、太宰は熱海のホテルに泊まり、脚本家と共に映画『佳日』の脚色に当たる。帰途、太宰は大雄山荘を訪れ静子と再会。
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太宰治との出会い
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就職した年に同人雑誌『非望』(1935年3月 - 6月、第6号で廃刊)の同人となる。『非望』第5号(1935年8月)に起稿した「空吹く風」が太宰治の目に止まる。太宰は京城に住む田中宛てに「君の小説を読んで、泣いた男がある。曾てなきことである」と書いた葉書を投函。以後、田中の師事が始まる。 1937年(昭和12年)2月、小島喜代と結婚。朝鮮神宮で挙式。 1939年(昭和14年)2月頃、中国山西省臨晋の野戦病院に入院していた間に書いた小説「鍋鶴」を太宰宛てに送稿し、発表誌紹介を依頼する。「鍋鶴」は太宰の妻によって清書され『若草』1939年5月号に掲載された。 1940年(昭和15年)3月、臨時本社勤務となり、東京に戻る。3月22、23日頃、三鷹に住む太宰を訪問、初めての対面となった。このとき田中は「われは海の子」と「杏の実」を持参している。太宰は中島孤島訳の「ギリシヤ神話」に拠って「杏の実」を「オリンポスの果実」と改題させ、『文學界』に斡旋する。同誌1940年9月号に『オリンポスの果実』掲載。同年12月、同作品は第7回池谷信三郎賞を受賞する。また高山書院から太宰の序文をつけて出版される。 1944年(昭和19年)、京城から静岡県に引き揚げる。 1947年(昭和22年)、妻子を静岡に残したまま、東京都新宿区にて同棲生活を始める。 1948年(昭和23年)6月13日、太宰が自殺。大きな衝撃を受けた英光は睡眠薬中毒と化す。 1949年(昭和24年)5月、同棲相手を薬物中毒による妄想のため刺す。同年11月3日午後5時頃、三鷹市の禅林寺の太宰の墓前で、睡眠薬アドルム300錠と焼酎1升を飲んだ上で安全カミソリで左手首を切って自殺を図る。知らせを受けて駆け付けた新潮社の編集者野平健一により、同市上連雀の病院に運ばれ、処置を受けたが午後9時40分に死去した。36歳没。 1979年(昭和49年)、出版関係者の遺品の中から未発表作品「闇の世」が発見される。
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太宰治との出会い
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石井は1940年、『新潮』5月号の『走れメロス』で、初めて太宰治の名を知った。以前イギリスの本で読んだ『走れメロス』のモチーフであるメロスとセリヌンティウスの逸話に石井は感激したのだが、そのことを知人に話すと「きみ、そんな話、ほんとうにあるかね」と水をさされたことがあった。そのため、太宰の作品でこの逸話がモチーフとなり「ほんとうにうれしく思」ったという。同年、井伏鱒二の家で太宰と偶然同席した石井は太宰から「ちょっとつかみどころもないほどやわらかい感じの、私には少年のように若々しく思えた人」という印象を受けた。井伏によると、「それから後は当分の間、太宰は桃子さんにあこがれるやうになつてゐた」という。あるとき石井が自宅の庭にある白樺の木を薪にするため奮闘していると、その姿を井伏に目撃された。井伏がその時のことを太宰に話すと、「素敵ですね」「いつぺん桃子さんのところに、僕を連れてつてくれませんか。でも、僕は他意ないんだがなあ」と太宰は言った。井伏によると、太宰は石井を念頭に置いて「僕は恋愛してもいいですか」と井伏に相談し、井伏から「そんなことは君の判断次第ぢやないか」と返答され、「やつとそれで安心した」と言ったことがあるという。後に井伏は「太宰君がね、あなたのこと、あの人、えらい人ですねって言ってましたよ」と伝え、石井を笑わせた。酒を飲まない石井の家にベルモットがあることを知った井伏が太宰を連れて石井宅を訪問したこともあった。戦後まもなく石井が宮城県で農業を営んでいた頃、井伏への手紙のついでに「太宰さんも東北ですね」と書いたところ、当時青森県の実家に身を寄せていた太宰の住所を井伏から知らされた。しかし農業に忙殺されていた石井は太宰に連絡を取ることができなかった。 1948年に太宰が情死した後、石井は井伏から話を持ち出されないのに太宰の噂話をし、主に太宰の小説について印象を語った。そのとき井伏は「この女性が、太宰のあこがれてゐたのを意識して話してゐるものと解釈した」。そこで井伏が「『すつぱりして、気持のいい男でしたね』と云ふと、『ほんとよ、いい人でしたわ』と桃子さんは、わが意を得たといふやうに答へた」。一方、石井は井伏に向かって「友情って、結局、そこまでは繋ぎとめられないものなんですね」と責めるように言ったとも回想している。そのとき井伏は「太宰君、あなたがすきでしたね」と言ったため、石井は驚いて「『はァ』と笑うような、不キンシンな声をだしてしまった」後、「それを言ってくださればよかったのに。私なら、太宰さん殺しませんよ」と答えた。すると井伏は「だから、住所知らしたじゃありませんか」と言った。
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