太宰治との関係
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晩年の太宰治が、仕事場で物憂げな表情で頬杖をついている有名なポートレートは、田村によって撮影された(写真は下段のギャラリーを参照)。田村は戦後の一時期、東京都三鷹市に住んでおり、同じ三鷹市民であった太宰とは一緒によく飲みに行く間柄であったという。 当時、田村は『文藝春秋』の連載「現代日本の百人」を準備しており、人気作家だった太宰も「百人」に加えるよう出版社に相談したが、心中未遂に薬物中毒といった過去を理由に断られた。撮影日付は太宰が没する4ヶ月ほど前の1948年(昭和23年)2月23日で、八幡書店から出版された太宰の生前唯一の全集用として、三鷹で27枚の連作写真が撮影された(使用機材は35ミリのライカ)。撮影コースは、玉川上水(3枚)から始まり、跨線橋(5枚)、両者の行きつけであった飲み屋「千草」(5枚)、再び玉川上水(3枚)、三鷹駅近くの踏切前(3枚)、古書店(3枚)と続き、最後は愛人・山崎富栄の下宿先で、再晩年の太宰の仕事場であった部屋(5枚)となっている。 仕事場での一枚は太宰の遺族も気に入り、後に(太宰の)長女に『太宰のイメージをつくっていただきまして、ありがとうございます』と感謝されたという。太宰の生誕100年に当たる2009年(平成21年)に、未公開作品を含むそれらの写真が、太宰のゆかりの深い青森・県立美術館、三鷹・市立芸術文化センター、山梨・県立文学館で公開された。 文学研究者の安藤宏(東京大学教授)は、太宰の無頼派としてのイメージを印象づけたのは、三鷹で田村が撮影した27枚の写真であると指摘し、「太宰は死を意識して、無頼派作家としての自分を後世に残すことを考えて、さまざまに演技していた。田村と太宰は飲み仲間で、意気投合した田村との見事な共同作品が出来上がった」と評価している 田村茂撮影作品ギャラリー 昭和23年(1948年)2月撮影 太宰治 文藝春秋新社 現代日本の百人(1953年) 斉藤茂吉 文藝春秋新社 現代日本の百人(1953年) 里見弴 婦人画報(1942年)2月号 上村松園
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太宰治との関係
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1928年(昭和3年)6月、同郷の作家太宰治の四姉きやうが小館の長兄貞一に嫁いだため、小館は太宰の義弟となった。(脚本家菊谷栄も姻戚にあたる。)1935年(昭和10年)の太宰の短篇「道化の華」に登場する法学生"小菅"は、小館がモデルだったという説がある。 翌1936年(昭和11年)10月、小館は自殺を図って篠原外科病院に入院した際、太宰の当時の妻小山初代からたびたび見舞いを受けた。しかしちょうど同じ時期に太宰が薬物中毒治療で自宅を空けていたため、小館と初代は若気の至りから姦通事件を起こす。この一件は初代からの厳重な口止めにより永久に闇へ葬り去られる筈だったが、1937年(昭和12年)3月初旬、太宰からの私信の一節を読み違えた小館は、姦通が露見したものと早合点し、卒業制作を携えての上京時、太宰の住む荻窪の碧雲荘を訪ね初代との関係を太宰に告白してしまった。これが原因となり、太宰夫妻は心中未遂を経て離婚に至る。 初代と結婚することを勧める者もあったが、小館にも初代にもその気はなく、二人はそのまま別れた。後年、初代は満洲に渡り、青島で暮らしていたが、1942年(昭和17年)初秋に一時帰国。浅虫の生家に帰って1ヶ月以上滞在した際、小館に逢い「早くいい人を見つけて結婚しなさい」と勧めている。この後、1943年(昭和18年)6月、小館は初代の言葉通りに木村幸枝と結婚した。 太宰の側では小館を許す気持ちが強く、1946年(昭和21年)8月、小館の妹れい子に「私は四郎君の今後の家庭生活の幸福をいつでも、ひそかに祈つてゐました。秋頃には四郎君に案内していただいて十和田湖へ行つてみたいと思つてゐます」と書き送ったが、太宰多忙のため実現はしなかった。 1998年(平成10年)、小館は太宰未亡人美知子の一周忌に、太宰夫妻の墓所である三鷹禅林寺を初墓参した。 なお、帝国美校時代からの小館の学友鰭崎潤(洋画家)はクリスチャンで、1935年8月頃から船橋の太宰家に出入りし、太宰に「聖書知識」誌を持参、太宰の聖書理解に大きく関わった人物である。
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