太宰治の自殺と色紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 23:37 UTC 版)
「池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる」の記事における「太宰治の自殺と色紙」の解説
晩年の太宰は短歌への関心を深めていた。死の前年である1947年、伊馬とともに熱海旅行に行った際には、短歌というものは子規の「瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり」のようなものだと思うとの自説を述べた上で、伊馬と歌論について語り合った。また太宰は伊藤左千夫の短歌を特に好み、歌集を繰り返し読んでいた。死去時、太宰の机上にあった6冊の本のひとつが斎藤茂吉、土屋文明編の「左千夫歌集合評」であった。 太宰治は1948年6月13日深夜、山崎富栄とともに玉川上水に入水して心中する。1947年春頃から太宰と山崎富栄は交際を始め、心中前は山崎富栄の部屋でほぼ同居状態になっており、そこで小説の執筆を行っていた。6月14日午後になって、山崎富栄が部屋から出てこないことを不審に思った家主の野川アヤノが山崎富江の部屋を開けてみたところ、机の上に 池水は濁りににごり藤波の影もうつらず雨降りしきる 録左千夫歌 太宰治 と書かれた色紙が置かれ、色紙の裏には「伊馬様」と、友人の伊馬春部宛に遺す旨が鉛筆で記されていた。友人宛の太宰治の遺書として用いられたことによって当作品の知名度は上がり、広く知られるようになった。
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